見出し画像

言うに言えない反SDGs概論

著者:ケイヒロ、ハラオカヒサ

SDGsといえば、髪型がツーブロックで不動産業界臭が強い太陽光発電屋の胸につけられていた17色のバッジが思い浮かぶ。それは太陽光発電所建設地で催された説明会に住民から誘われて参加したとき目に焼き付けられたのだった。

「土砂が海に流れている」と住民らが小川を指さすと、よく喋る太陽光発電屋の男は「海よりCO2のほうが問題が深刻で。国連のSDGsで決められていることなので」と話を逸らした。海より住民の生活より国連のSDGsという詭弁は極端な例だろうが、よく似た話を最近も報道で見かけたので後述する。

エスディージーエスって何? 言える?

SDGsは2015年9月25日の国連総会で採択された『持続可能な開発のための2030アジェンダ』に記された2030年までの具体的指針のことだ。この指針が  Sustainable Development Goals だから SDGs 。

だったら最後の[s]はいらないのでは?

[s]が入らない SDG だけでは ラテン語の Soli Deo gloria になってしまう。Soli Deo gloria は「ただ神にのみ栄光」でキリスト教プロテスタント派の基本的な信仰を示す「五つのソラ」のひとつ。国連が掲げる目標としてキリスト教プロテスタント派の信仰を表す言葉(の略号)と同じではまずい。まずくないはずがない。

SDGsといえばカラーホイールだ。カラーホイール・バッジはAmazonのマーケットプレイスでも売っている。それくらい、どこかでは必需品なのかもしれない。

Xサークル)


この17色が示すものは、

画像2

■ 貧困をなくそう (No Poverty)
■ 飢餓をゼロに (Zero Hunger)
■ 人々に保健と福祉を (Good Health and Well-Being)
■ 質の高い教育をみんなに (Quality Education)
■ ジェンダー平等を実現しよう (Gender Equality)
■ 安全な水とトイレを世界中に (Clean Water and Sanitation)
■ エネルギーをみんなに、そしてクリーンに (Affordable and Clean Energy)
■ 働きがいも経済成長も (Decent Work and Economic Growth)
■ 産業と技術革新の基礎をつくろう (Industry, Innovation and Infrastructure)
■ 人や国の不平等をなくそう (Reduced Inequalities)
■ 住み続けられるまちづくりを (Sustainable Cities and Communities)
■ つくる責任 つかう責任 (Responsible Consumption and Production)
■ 気候変動に具体的な対策を (Climate Action)
■ 海の豊かさを守ろう (Life Below Water)
■ 陸の豊かさも守ろう ( Life on Land)
■ 平和と公正をすべての人に (Peace, Justice and Strong Institutions)
■ パートナーシップで目標を達成しよう (Partnership)

以上だ。

さらに各目標に付随する169の達成基準項目が定められている。

■ 貧困をなくそう (No Poverty)
1: あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる
1.1 2030年までに、現在「1日1.25ドル未満で生活する人々」と定義されている極度の貧困を、あらゆる場所で終わらせる。
1.2 2030年までに、各国定義によるあらゆる次元の貧困状態にある、すべての年齢の男性、女性、子どもの割合を半減させる。
1.3 各国が最低限の基準を含む適切な社会保護制度及び対策を実施し、2030年までに貧困層及び脆弱層に対し十分な保護を達成する。
1.4 2030年までに、貧困層及び脆弱層をはじめ、すべての男性及び女性が、基礎的サービスへのアクセス、土地及びその他の形態の財産に対する所有権と管理権限、相続財産、 天然資源、適切な新技術、マイクロファイナンスを含む金融サービスに加え、経済的資源についても平等な権利を持つことができるように確保する。
1.5 2030年までに、貧困層や脆弱な状況にある人々の強靱性を構築し、気候変動に関連する極端な気象現象やその他の経済、社会、環境的ショックや災害に暴露や脆弱性を軽減する。
1.a あらゆる次元で貧困を終わらせるための計画や政策を実施するべく、後発開発途上国をはじめとする開発途上国に対して適切かつ予測可能な手段を講じるため、開発協力の強化などを通じて、さまざまな供給源からの相当量の資源の動員を確保する。
1.b 貧困撲滅のための行動への投資拡大を支援するため、国、地域及び世界的に、貧困層やジェンダーに配慮した開発戦略に基づいた適正な政策的枠組みを構築する。

といった具合である。

では、SDGsはどれくらい認知されているのだろうか。

賢明なみなさんには多数ある意識調査の結果を比較してもらいたい。調べてみれば、国民の50%程度がSDGsを認知しているし、企業の意識はあんがい高いと誰もが思うはずだ。

そして17項目の目標それぞれに不自然なくらい回答がついている。これは各項目を例示したうえで回答を募っているからで、実際には「気候変動」への目標くらいしか知られていないのではないかと感じる。

そこでGoogleの検索指数で「SDGs 気候変動」と「SGSs 貧困」を比較してみた。すると「気候変動」のほうが圧倒的に関心を集めていて、貧困解消はある程度認知されていても話題の中心にないのがわかる。話題として避けられているのが貧困解消項目なのかもしれない。

画像3


では「SDGs」のみと「SDGs 気候変動」「SGSs 貧困」を比較してみる。SDGsのみの検索数が多いのはとうぜんだが、その差の開き具合から17項目それぞれについて知ろうとする人がほとんどいないのがわかる。

画像4


意識調査でSDGsへの関心、取り組み、意向などを聞いたとき、満遍なく考えている人や企業が多くなるのは、設問のつくりかたが影響していた。また「知らない」「やる気がない」と回答しにくいのもSDGsの特徴ではないだろうか。

SDGsは内容より「エス・ディー・ジー・エス」という名称とぼんやりした印象だけが一人歩きしているのが実態で、ありがたがっていないと周囲の反応が気になるといったところだろうか。つまりSDGsは何がなんだかわからないお経のようなありがたい言葉でしかないということになる。

そんなことはないと言う人々は、17項目の目標を暗唱できるのだろうか。常にこの17個の目標を等しく心がけられるのだろうか。169の達成基準項目に至ってはほぼ理解されていないだろうし、存在すら知らない人が多いはずだ。

「気候変動」と「貧困」を等しく考えて行動の目標にできる人、企業、国家はどれくらい存在するのだろうか。しかもジェンダー問題も水とトイレの問題も海の問題も等しく扱えるのは……。

等しく扱えなくても、すべてを並行して考えるのがSDGsだ。そうでないなら17個の目標を並べる必要はない。


僕たちはもう手に入れたから「これ以上の豊かさはいらない」

ここでSDGsを否定する主張を繰り広げている人々を紹介したい。


デモ


この若者たちが「気候変動」を抑制するため「脱石炭」化を訴えていることから意識が高い人々のように報道されている。

記事には書かれていないが、彼らはSDGsと書かれたプラカードを使用してきたのでSDGsの目標達成を訴えたうえでの「脱石炭」の主張は、
■ 気候変動に具体的な対策を (Climate Action)
に対する答えと見てよいだろう。

だが、
■ エネルギーをみんなに、そしてクリーンに (Affordable and Clean Energy)
のうち「クリーン」はよいとしても「エネルギーをみんなに」はどうだろうか。

先月、よく似た社会運動をする学生の活動が報道されている。

あさ

まとめ

バングラデシュの電力不足は深刻で単に家庭の電灯が灯せないだけでなく産業が滞り、電力を必要とする医療など福祉分野も危機的状況にある。バングラデシュが手にできる現実的な発電方式は火力だ。だからJICAが支援をする。

これは「エネルギーをみんなに」を実現するためだ。

反対運動をする若者は「豊かさとは何か」「どう豊かになるのか」「ただ成長すればよいのか」と言っているが、それ以前のエネルギーさえないのがバングラデシュなのである。

さらに、
■ 貧困をなくそう (No Poverty)
という目標はどうなるのだろう。

話をCOP26に合わせてデモをした若者に戻そう。

彼らは「これ以上の豊かさはいらない」と言う。

彼らはそこそこ満足できる豊かさを既に手に入れた。だが彼らより若い世代はどうなる。

彼らより若い世代は、年上世代のお下がりで満足しなければならない未来が待っていることになる。経済成長が止まれば、デフレ下の苦しさだけでも精一杯なのにゼロともなれば地獄だ。「君たちはスマホが買えない世代だ。電気が足りなくなるかもしれないから持っていたところで充電できないからね」と言っているのも同じだ。

これは、
■ 働きがいも経済成長も (Decent Work and Economic Growth)
というSDGsの目標を無視している。

GDP世界第3位の日本に生まれることは、料理が豊富に揃っている開始早々のビュッフェの入場券を握っているようなものだ。この若者たちは好みの料理をたらふく食べて「このくらいで満足することにしよう」と言っているのと同じだ。

そしてビュッフェ会場のスタッフに命じる。
「もう料理をつくらなくていいです。これで満足なんです。無駄はやめましょう」

だが会場の外にはこれからビュッフェを楽しもうと次の世代が待っている。この人たちは古びた料理しかも残りものを食べるほかない。次の世代から先んじて搾取していると言えるかもしれない。

これを世界規模で考えみよう。

日本の恵まれた大学生たちが「もう満足。無駄はやめましょう」「石炭火力」を使うなと言っている周囲にバングラデシュなど途上国の人がいる。

「あなたたちが求めている豊かさだけが豊かさではないのですよ。きれいな空と海があれば豊かじゃないですか。スマホや自動車なんてなくたっていいじゃないですか」

ひどい話だ。傲慢極まりない。SDGsの精神に反するにもほどがある。

だがこれが環境運動の最前線でありSDGsと矛盾していない正義であるとされている。そして、この矛盾についてメディアは一切報道していない。こうした積み重ねが何を生み出したか敢えて説明するまでもないだろう。


反SDGsを声に出して言いたい

あまりに無自覚で傲慢な若者の例を示したが、彼らだけがおかしいのではない。

世間ではSDGsといえば[気候変動に具体的な対策を]であり、なぜか再エネだったりする。胸に17色が輝くバッジをつけたビジネスマンたちもあらかたそうだ。そうでないなら、ぼんやりした善行の象徴だ。冒頭に紹介した太陽光発電会社の社員も「SDGsで、再エネで」と繰り返し言っていた。

ここで金融機関から融資名目で多額の資金を詐取した太陽光発電関連会社「テクノシステム」の広告を見てみよう。

テクノシステム


社会正義としてのSDGsであり、再エネを象徴するSDGsであることがわかる。これこそパブリックイメージとしてのSDGsだ。

SDGsは理念が悪いのでも17個の目標が悪いのでもない。いずれも必要なのだが、国家や企業の目標にとどめず、大衆を善に導くべきであるというエリートの勘違いが失敗の原因をつくっている。

把握しきれるはずがない17個もの目標の羅列は、付随する169の達成基準項目とともに文字通りの「お題目」集でしかない。このお題目を大衆に広めるため、わかりやすいパッケージとシンボルが必要になり略称「SDGs / エス・ディー・ジー・エス」と、カラーホイールに代表される広報戦略が取られた。

本来あの17色には意味なんてものはない。たとえば「食べたいもの BEST 17」と題して筆者がつくった一覧と何もかわらない。

画像8

だがいまやSDGsと17色のバッジは、お題目を振りかざすビジネスであり絶対正義の棍棒ですらある。プロテスタントの Soli Deo gloria のように、略称SDGsは意味と真意がわからないまま護符やお経のように使われて信仰の証に成り果てている。

そこで、こんなSDGsはおかしいと「反SDGs」の声をあげたらどうなるか。黙殺されるだけならまだよいほうで、いまどきは反社会的とすら言われる。

脱炭素化とエネルギー安全保障の両面で原発の必要性を問うと、反原発派だけでなく再エネビジネスをしている人々やSDGsの信奉者から「汚い大人」と罵声を浴びせかけられる。SDGsを推進するために原発はむしろ不可欠ではないかと言えば、いまさらながら原子力ムラとレッテルを貼られる。

再エネ否定ではなく、発電手段はバランスを取らなければならないと言うだけでこれだ。貧困をなくそう、飢餓をゼロに、人々に保健と福祉を、質の高い教育をみんなに……と語りかけても、まったくの無駄に終わる。

パブリックイメージの修正は既に不可能であるし、ビジネスSDGsや傲慢な環境活動家に方向修正を望んでも無駄であり、メディアもまた彼らと共犯関係にある。こんなSDGsは百害あって一利なしだ。SDGsという“パッケージ”はつぶしてしまったほうがよいのだ。


きれいごとを言っている場合ではない

あるとき筆者(ケイヒロ)は知人に請われて都心の某オフィスへ行った。

打ち合わせの席にいるカタカナの肩書きを持つ初対面の人々とともに、外光がさんさんと入る会議室で環境問題やSDGsといった単語を交えて制作物のアイデアを出し合った。空調が効いた部屋から窓越しに見下ろした都会はとても美しく見えた。

打ち合わせが終わって雑談がはじまると、メンバーの一人が所有する輸入物のピックアップトラックが話題になった。「かっこいいですね」「撮影で使わせてほしい」と、みな屈託がない。

「燃費、すごいことになってませんか」
と聞く人がいた。
「それ考えてたら乗れないですよ」

そういう姿勢を否定するつもりはないし、そういう楽しさも人生には必要だ。野暮を言うつもりはないし、これが現実というものだ。それでもSDGsを前にすれば外面そとづらは完璧に整えなければならない。しかもは本来のSDGsではなくパブリックイメージの、環境活動家たちの「エス・ディー・ジー・エス」に対して跪かなければならないのだ。

世の中に溢れる大抵のSDGsはこのようなものだ。

この冬、原油価格やLPG価格の高騰が止まらず、しかも火力発電への逆風が吹き、されど原発は長期停止したままである。電力価格は値上がりし、停電が発生するかもしれない事態に「困る」と言うだけで済む人は恵まれている。なぜなら死に直結する人がいるからだ。

大袈裟だろうか。

それならエレベーターやエスカレーターが止まることで外出がままならなくなる人を想像すればよいだろう。10年前、私たちは震災の日や計画停電などで電気がない日常を経験しているのだから想像するのは難しくない。

もちろん国外の他の国々について考えてもよい。

きれいごとで汚されたSDGsなんて語っている場合ではない。そのきれいごとが誰かを踏みつけ、ときに死に至らしめているのを自覚すべきだ。もしSDGsをファッションとして身に纏っているなら、もうとっくに恥ずかしいものになっているのを自覚したほうがよいだろう。恥ずかしいだけでなく、その人は恵まれているだけに悪質なのだ。



会って聞いて、調査して、何が起こっているか知る記事を心がけています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。ご依頼ごとなど↓「クリエーターへのお問い合わせ」からどうぞ。