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芸術(表現)の素晴らしさ そして「売れるためにどこまで自分を殺すのか」問題

先日小説を書いた。
よく書けたが、凡庸なものだ。

私は芸術をざっくり言うと「感情の表現手段」だと解釈しており、表現できてればあらゆる手段は問う必要がないと考えている。

文章は、凡庸だ。
なぜなら、少なくとも日本に生まれている人ら、特に、私がnoteというネット媒体にアップロードしたものを読む人らは99.99%読み書きができる人らであり、全員が表現の手段として文章を書くことができるからだ。

識字率の高さは、そのまま文章の表現としてのハードルの低さでありあらゆる世間で無名の私が綴ったその作品の存在自体が価値を持つことは、恐らく無い。

一方で絵や音楽の手ほどきを受けてきた者は読み書きができる人達よりはおそらく少なく、だから絵とか音楽が描ける人は魅力的に思われることがある。というより内容云々はともかく存在それだけで価値を持ち得るということだ。


哀しいかな一生懸命書いた私の作品は持て囃されることもなく、いや、まず誰にも相手にされず良し悪しすら付けてもらえずnoteのdat海に消えていくわけだが、私はこれに関して既に2回記事を書いており、つまり私にとってはめちゃ価値のある作品だ。

好きな作品の要素やオマージュ、表現方法やテーマを雑多に煮込み、そしてどこかの映画のプロットを似せた鋳型に流し込んだだけのものだが それはそれはもう、私の好みで素晴らしいのだ。

現状公開されているものは、そこから三度ほど手直しを加えて読みやすくしたものだ。

私は、別に書いてちやほやされたかったわけではないが、やはり完成しても誰にも読まれないのは切ないので、掲示板的なところで(なろうではない)公開し評価を募った。

結果的から書くと、いくつも評価を貰えた。
ただ、当然作品の内容に対する言及である。先ほども書いた通り、他人の書いた文章作品というのはもうありふれにありふれまくっているものであるからだ。できれば、もはや書いたことに対してすごいねって褒められたいが、それは無理である。

読みにくいという評価が大半だった。
個人的な好みから一般的でない言葉をつかったり、なんとなく難しい言い方にしてみたり、なんならかっこいいと思って造語で表現してる部分がキモい
というのと、冗長であるとか、語り手の視点が飛び飛びで感情移入しにくいというのがほとんどの評価だった。

別にどこかに売り出す必要もないし、他人の好みに合わせる必要も無いのだが、私はこれらの指摘を受けて大幅に書き換えた。数千文字くらい消した。

自分のために内面をただ描くのが芸術だとするなら、他人が読みやすいように、伝わりやすいように"良い文章"にするのは完全に間違いである。
でも直した。


クリエイターワナビーの相談コーナー的なコンテンツを見ていると頻繁に目にする話題の一つに「"売れる"ようにするために自分を殺して一般ウケしやすい表現をするしかないのか vs 自分の書きたいものだけを書いていきたいのだがどうしたら良いか」というのがある。

常にこれには「バランスを見極めろ」という回答がつきものなのだが、(自分を殺してても"臭み"が無くなりすぎて面白さがなくなるし、かといって書きたいものだけ書くのはただの自慰行為でしかなく世間的には無価値だから)
私は更に「そこへの折り合いの付け方も人間の個性、臭み、旨味であり大いに悩むべし」と思うのだ。
実際問題、古今東西の芸術家は常にこの問題に直面し、成功者は全員が上手いこと折り合いを付けている。
美術館に展覧されている絵も、裸婦画のような変態の芸術家がただ描きたいから描いたやつもあれば、婦人画や貴族の家族絵画みたいにお客様へのおもてなしで描いているものから様々なのである。というか、展覧されているような大抵の偉人的画家は「売れそうな」絵を描いたり、はたまた書きたいだけのエロい絵を描いたりしているわけだ。

そういう画家実務的な活動の仕方もあるし、「線の描き方、塗り方に私の表現したい部分があるから、テーマは何だって良い」という人だっている。
一方でどうしても世間に媚びず、絶対に自分が描きたいものだけを描くという人もいるだろう。

つまり、売れるか、活動していけるかはともかくとして結局私(あなた)にとって魅力的であるなら良いものだし、魅力的でなければ良くない それくらいしか言いようがない。

無名のどこかのおっさんの作品であっても、好みや人間性が似ていれば大いに感銘を受けることもあるだろうし、一方でどれだけ素晴らしい作品だとしても全然良さがわからないものだってあるはすだ。

ただ、現代美術やピカソの描く抽象画など、「表現としての限界を求める技の究明手段の極致の証明」みたいな作品もあるので、そういったものに対して「ピカソと俺は気が合わないから良さがわからない」とか言うのは、とっても滑稽に見られがちなので注意が必要だ。ピカソ、いや、正しくは現代美術の素晴らしさが理解る人というのは、学術的芸術表現の専門家みたいなものなのである。

私はそういう展覧会には行かないし、行ってもどうせわからないし、おそらく学術的芸術性はすごく低い自分の作品に酔いしれるだけである。

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