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ジャン=ジャック・ルソー 第1章

「過ちを犯すのは恥ずべきことじゃない。むしろ、その過ちを改めようとしないで、繰り返すことの方が恥ずかしい」

 自慢の長い髭を撫ぜながら、ジャンは言った。
 ジャンは、街灯の薄明かりにぼんやりと照らされたベンチに、背筋をピンと伸ばして座っている。櫻子はその隣に腰を下ろして尋ねた。

「何それ?ルソー?」

 首を傾げて見せると、ジャンは鼻を鳴らした。
 公園の中央にある時計台の針は、二十一時を指している。秋も深まったこの時期の夜の空気は、きりっと澄んでいて冷たい。ひんやりとした夜風に吹かれて、櫻子は身を竦めた。

 ジャンと初めて出会ったのも、冷たい風の吹く、秋口の夜だった。
 あの日、櫻子はどうかしていたのかもしれない。普段だったら疑問に思ったり、夢だと思ったりするはずだ。いつもの櫻子なら信じるはずがなかった。

 あれは、蒸し蒸しとした夏が終わり、ようやく涼しさを感じるようになった秋の始まりだった。

 櫻子はその日、寝坊した。大学のテニスサークルに遅れそうになり、慌てて自転車に飛び乗ってグラウンドに着いたのは、集合時間ギリギリだった。
 一日テニスの練習試合をして、サークルの仲間とファミレスで夕食を食べた。そこまでは、何でもない日常だったはずだ。

 駅前で仲間たちと別れると、途端に見たかったテレビ番組を思い出して、櫻子は足早に自転車置き場へ向かったのだ。でも、停めたはずの場所に櫻子の自転車はなかった。記憶違いかとも思ったが、花壇の横の駐輪場に、一カ月前に買ったばかりの水色の自転車を停めたのは間違いない。

 サークル仲間たちはみんな電車通学だったから、この駐輪場を使ったのは櫻子だけ。今から追いかけようか、と迷うが、自分の悲運を告げたところで自転車が戻って来るわけではない。多少すっきりとした気持ちにはなるかもしれない。でも、根本的な解決にはならないだろう。

 一日の疲れもあって、櫻子は途方に暮れて駐輪場の脇の花壇に腰掛けた。思えば、ここ最近ツイていないことばかりだ。一週間前はお気に入りの傘をどこかに置き忘れ、三日前には魚の小骨が喉に刺さった。
 そして、今日はテニスの練習試合が散々な結果に終わった。極め付けは、まだ買ったばかりのお気に入りの自転車を盗まれたのだ。落ち込まずにはいられまい。

「お嬢さん、お困りですか?」

 道路を行き交う車をぼんやり見つめていると、背後から声をかけられた。
ナンパだろうか、と警戒して声の方を見るも誰もいない。気のせいにしては、はっきりと聞こえた気もするが、キョロキョロと周囲を見回しても人の姿はなかった。
 気味が悪くなって、櫻子がその場を立ち去ろうと腰を上げかけたときだった。

「こっちだよ、お嬢さん」

 今度は真横で声がした。花壇の縁に置いた自分の手の方を見やると、薄明かりの下にドブネズミが立っていた。

「ひっ」

 思わず叫びそうになり、飛び出しそうな声を飲み込もうと口に手をやる。
 都会でも路地裏には未だにドブネズミがいる、とおばあちゃんが言っていたのを思い出す。都内の地下にはたくさんの下水道が走っているからだそうだ。またおばあちゃんの作り話かと思っていたが、本当だったのか。
 そう呑気に考えてみたものの、いやその前に今ドブネズミが言葉を話していなかったかだろうか。そこまで考えて、櫻子は悲鳴を飲み込んだ。

「しゃ……喋った?」

 卒倒しそうになるのを、なんとか堪えながら、目の前のドブネズミをもう一度見る。
 如何にもドブネズミという茶色と灰色の混ざった毛色で、大きな歯が覗く口元には長い髭を携えている。ぴんと立った耳はピンク色で、一部がブイの字に欠けていた。
 毛のない長い尻尾が生えているのを見て、櫻子は思わず後退さりした。

「そりゃあ、ネズミだって時には喋るだろう?」

 君たち人間だってペラペラ喋るじゃないかと、さも当然のようにドブネズミは言った。

「私の知っているネズミは、話さないのだけど……」
あまりにも自然に話すものだから、櫻子は思わず呟いた。
それを聞いたドブネズミは、不服そうな顔を隠そうともせずに、たっぷりと間を取って言った。

「僕たちは、無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じて疑わないから迷うのだ」

 終わりに、すんと鼻を鳴らしてみせた。その様子がおかしくて、櫻子は思わず笑ってしまった。ドブネズミはそれに気付いていないのか、満足そうに自分の髭を撫でている。

「何それ?」

 笑いを堪えて問うと、ドブネズミは櫻子の隣に腰掛けた。背筋をはって座る様子は、より一層に櫻子の笑いを誘った。その姿がネズミでなければ、さぞ立派な紳士に見えただろう。

「ルソーさ」

 人間なのにそんなことも知らないのかい?とドブネズミは口を尖らせた。
そして続けて、「図書館で読んだ本に書いてあったンだよ」と胸を張る。

「ネズミって字が読めるの?」
「ネズミではない。ジャンという名前がある」

 櫻子の質問には答えずに、ジャンはそう言うと、長いまつ毛でパチリと瞬きをした。
 轟々と音を立てて、トラックが横を通る。その音に驚いたのか、ジャンと名乗った小さなネズミの身体が跳ねた。

「ところでお嬢さん、何か困っていたのではないのかい?」
「あ、そうだった」

ジャンに聞かれて、櫻子は自転車が盗まれたことを思い出す。

「何があったのか、僕に話してごらんよ」

 ジャンはそう言うと、ちょいちょいと手招いた。どうやら隣に座れということらしい。

「僕は占い師の手伝いもしているンだ。だから少しくらいは相談に乗れるかもしれない」
「占い師?」
「そうだ。毎週木曜日にあの角のところで営業しているよ」

 小さな指で差した先は、細い路地の入口だった。どうにも胡散臭い。

 きっと櫻子はどうかしていたのだと思う。だって、急に現れたドブネズミに相談したところで、解決する問題ではないだろうし、そもそもドブネズミが喋るはずがないのだから。
 頭の隅に居る冷静な自分がそう言ったが、話すだけなら良いだろうと思う自分もいた。魔が差したというか、誰かに聞いて欲しかっただけかもしれない。

 事情を話すと、ジャンはすっくと立ち上がり「探してみよう」とだけ言った。

「探せるの?」
「すぐには無理だ。少し時間がかかる」

そう言って、ジャンは急に立ち上がった。

「どうやって探すの?」

 櫻子が尋ねると、ジャンはまた胸を張った。

「僕たちは意外と、君たち人間のことをよく知っているンだよ」

 まあ任せてくれよ、とウィンクのつもりなのだろうか。小さな目を片方だけ瞑って見せた。

 それから「では、ごきげんよう」と丁寧にお辞儀をすると、闇へ消えていった。それがジャンとの出会いだ。


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