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第2章 カール・マルクス

「君の自転車を見つけたよ」

 アルバイトの帰り道、暗闇から音もなく現れた灰色のネズミを見て、櫻子は心臓が口から飛び出そうになった。

 街灯に照らされたネズミの耳は、Vの字に切れ込みが入っている。こちらに手を振る姿を上から下まで見て、――といっても、背丈は二十センチメートルほどだろうか――あれは夢ではなかったのだと、櫻子は改めて思った。

「聞こえているかい?君が無くしたと言っていた自転車が見つかったンだ」

 こちらに声が届いていないと思ったのか、ジャンはもう一度大きな声でゆっくりと言った。

「聞こえてるってば!」

 櫻子は慌てて、近くに人がいないかを確認する。

「聞こえているなら返事をしてくれよ」

 父親の小言のように、ぶつぶつと呟くジャンの口を今すぐにでも塞ぎたかった。ドブネズミに一人で話しかけている自分の姿を知り合いに見られたら、たまったものではない。

この前会ったときのように、小さな手で「こちらへ」と招いているネズミを無視するわけにもいかず、櫻子は仕方なしに付いて行くことにした。

「これ……私のじゃない」

 ジャンの案内で、近くの公園に停めてある自転車を目の前にした櫻子は、ため息を吐いた。

 櫻子の自転車は水色のママチャリだ。サドルは茶色のフェイクレザーで、前かごはシルバーの金属製。
 ジャンが探してきた自転車は、確かに櫻子の自転車と同じ水色をしていた。しかし、目の前のそれはどうみても櫻子のより、一回りも二回りも小さい。

「これではないのか……」

 う〜んと唸って顎に手をやるジャンに、櫻子は「ちょっと私には小さいかな」と控えめに伝えた。もしかしたら、小さなネズミにとっては子ども用自転車も大人用自転車も、同じように大きく見えているのかもしれないから。

 残念そうに口を尖らせたジャンは、「仕方ない」と呟いた。

「ここから君の家は近いのかい?」

 ところで、この子ども用自転車はどこから持ってきたのだろう?と首をかしげながら、櫻子はジャンに「歩いて五分くらいかな」と答えた。

「では、家まで送ろう」
「え?いや!いいってば」

 反射的に断ったが、この判断は正しかったと思う。

「こんな時間に女の子が一人で歩いていたら危ないだろう?」
「ネズミと歩いてても、変わらないと思うけど?」
「何をいっているンだ。僕はこう見えて、ジムで鍛えているからね」

 そう言って、ジャンは右腕を曲げて力こぶを作って見せた。しかし、その腕はふわふわの毛が覆っていて、櫻子には力こぶができているのか確認できなかった。そもそも、ネズミの世界にジムがあることは初耳である。

「ちょっと……」
 意気揚々と先に歩き始めるジャンを止める言葉が思いつかず、櫻子は仕方なく彼に続いた。


「ここかい?」

 ネズミのジムはどんな感じなのだろう?なんてくだらないことを考えているうちに、櫻子が一人暮らしをしているアパートの前に着いていた。

 『エピクロス』と名付けられたアパートは、外装こそあまり綺麗ではなかったが、室内はリフォーム済みだ。高校3年生の春休みに母と内覧へ来たとき、真っ白なフローリングが気に入ってここに決めた。

「ほう。見た目はアレだが、エピクロスとは良い名前だな。」

 隣のジャンは、何故かフムフムとアパートを吟味している。

「家に着いたし、もういいでしょ?」
「そうだな。いや、せっかくだしお邪魔していこう」
「なにが、せっかくなのよ。勝手に着いてきたくせに」

 アパートの階段を上る櫻子の後に続き、ジャンは階段の手すりを器用に渡ってきた。

「あのねえ」

 櫻子が口を開きかけたときだった。

「おい!ジャン!」

 足元で小さな声が聞こえた。暗くてよく見えず、スマートフォンの明かりを照らすと、見たことのないネズミが立っている。

「眩しい!」

 ライトを向けられて眩しそうに顔を覆うそのネズミは、ジャンよりもふっくらとしている。毛の色は茶色と黒が混じっていて、耳は垂れ気味で毛つやが良い。

「だ、誰?」
「ちょっと!そのライトを向こうに向けておくれよ!」

 怒ったように、キーキー声でそのネズミが言った。慌ててスマートフォンを下ろすと、ネズミは一心不乱に毛繕いし始めた。

「やあ、カール」

 櫻子の後ろからジャンが顔を覗かせて、そのネズミに話しかけた。どうやら、このずんぐりむっくりしたネズミはカールという名前らしい。

「ジャン、この小娘は誰なんだい?いきなりライトを当てるなんて失礼じゃないか」
「あなたも喋れるの?」
「ネズミが喋れないなんて、一体誰が人間に吹き込んだんだい?」

 カールと呼ばれたネズミは、むっとした表情で櫻子を睨んだ。

「ごめんよ、カール。この子は自転車をなくした不幸な子でね。僕が探すのを手伝っているところなンだ」
「へえ。それはお気の毒に」

 自転車泥棒って最近多いからね、とカールは心底気の毒そうな顔をした。

「君は水色の自転車に心当たりはないかい?」

 駅前で盗まれたらしいんだ、と言うジャンに、カールは首を横に振った。しかし小さく、「エイブラハムなら知ってるかも」と呟いた。

「エイブラハムか……」

 ジャンは長い髭を指でくるくると巻きながら、考え事をしているようだった。

「それよりもジャン!ニーチェのやつが酒屋で掴まっちまったんだよ!」
「なに?それは大変だ!」

 ジャンはそう叫ぶと、櫻子の脇を通り抜けカールと一緒に闇に消えてしまった。ニーチェって?と聞く暇もなかった。

「まあ……いいか」

 櫻子はカバンからアパートの鍵を取り出した。

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