社会に不要な人間はいない

なぜならば、社会に特別必要な人間はいないから。
したがって、特別に不要な人間もいないのである。

社会は現に存在するものだけで形作られている

たとえば、自動車は現代社会に不可欠なものだが、自動車のない時代にも社会は存在していた。つまり、現代社会に不可欠だと思われているものは、必ずしも社会に不可欠であることを意味しないのである。

馬と自動車の競争

現代において、移動手段としての馬は自動車に駆逐されているが(簡単のためにひとまず比較対象を馬と自動車に絞る)、自動車のない時代には馬が当たり前に移動手段として用いられていたし、社会機構システムそのものが、移動手段は馬であることを前提として形作られていたのである。移動手段としての馬が自動車に取って代わられたのは、移動手段として馬よりも優れている自動車が、現に存在するようになったからなのである。
もし仮に、瞬間移動テレポートを可能とする装置が現に存在するようになり、製造や稼働に必要な費用などといった実運用上の面でも自動車より優れたものになれば、移動手段としての自動車は瞬間移動テレポートに駆逐されるだろう。

競争の勝者と敗者

現代において、(移動手段としての)馬は社会に必要だ、と言う人間はほとんどいないだろう。しかし、馬は自動車との“社会における移動手段”という椅子を占める競争に敗れているだけで、元から特別に社会から必要とされていたわけでも不要とされていたわけでもない。現に存在していたから組み込まれていたのであって、より(移動手段として)利便性の高いものが現に存在するようになったからその椅子から蹴り出されただけなのだ。
同じことが人材についても言える。唐突だが、あなたはプロ野球選手だろうか?ほとんどの人は違うだろう。では、あなたは野球ができないのか?ほとんどの人はできるはずだ。もし今現在できなくても、五体満足な身体と野球のルールを覚えられるだけの最低限度の知能さえ備えていれば、野球をすることはできる。“ただ野球をするだけの才能”であれば、多くの人間が持っているのだ。しかし、ほとんどの人間はたとえ望んでもプロ野球選手にはなれない。それはその人が野球ができないからではなく、その人よりも野球の上手い人間が現に存在してしまっているからなのだ。仮に、あなたよりも野球の上手い人が一人も存在しなくなってしまったなら、あなたはプロ野球選手になれるだろう。

まとめ

社会は常に、現に存在するもののみで構成されており。社会それ自体がなにかを特別に必要または不要とすることはない。
社会に必要とされているように見える人は他人との競争の勝者であり、社会に不要であるように見える人間は他人との競争の敗者なだけである。
社会(の立ち位置、地位、椅子)を求めているのは常に人間であり、社会が(特定の)人間を求めることはない。そして、社会の椅子は常に有限であり、人間社会は常に椅子取りゲームにしかなり得ない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?