諸隈元シュタイン

妖怪ヴィトゲンシュタイン野郎

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反・自殺論考3 私的反自殺論

 第2章では、ヴィトゲンシュタインの前半生を、自殺をテーマに駆け足で紹介した。  と言いつつ、どうでもいい情報に沈黙できず、鈍り足になってしまったのがオタクの(話を聞かされる皆様の)辛いところである。  このまま走り続けても自分としてはウェルカムだが、読者の皆様が二の足を踏みそうなので、僕の本業であるエッセイで一服したいと思う。  ここだけの話、本業は小説家であるものの、デビュー作を除けばエッセイの仕事しかしていないため、僕自身すら小説家であることを忘れつつあるのが現状なので

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    • 反・自殺論考2.26 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

      余計なエピソード 庭師から晴れて教師になり、当初は朗らかに「トラッテンバッハという美しい小さな隠れ家で働いています」「学校での授業に幸せを感じています」などとエンゲルマンに報告したヴィトゲンシュタインだが、たちまち村人との関係が悪化し、彼らのことを「ろくでなし」「虫けら」「四分の一動物で、四分の三が人間に過ぎない」などと罵る手紙をラッセルに送り、すぐさま「あえて言うが、どこでも君は同じように周りの人たちに不愉快になると思う」と窘められた件については、あえて書いてはみたが最早ど

      • 反・自殺論考2.25 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

        教師の前後に庭師 ヴィトゲンシュタインを追いつめた「特定の事実」が何だったかは不明である。  頻繁に連絡をとっていたエンゲルマンにすら不明だったようなので、未知の日記でも発見されない限り、真相が明らかになることはないだろう。  唯一つ、不意ではなく平手打ちのように明確なのは、彼が自殺しなかったということ、それだけである。  結局どうなったかというと、  とラッセルに書いた1920年7月7日に、ヴィトゲンシュタインは教員免許を取得した。  ここで言う「もっと良いこと」とは、

        • 反・自殺論考2.24 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          告白 ただ、ヴィトゲンシュタインが行う「告白」という行為の種が、この時期に植え付けられたと考えるのは、突飛な発想でもないかもしれない。 「ずっと僕は命を絶とうと考えてきました。その思いに今なお取り憑かれています」  というヴィトゲンシュタインの手紙に、エンゲルマンは二十日後の6月19日、彼らしい誠意ある長い返信を送っているが、仕事について悩んだ彼がふらりと田舎へ出向き、そこで何をしたかをこう述べている。  ここで改行し、エンゲルマンは「私は翌日、得られた気づきを元に、将来に

        反・自殺論考3 私的反自殺論

          反・自殺論考2.23 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          プラーター・エピソード ところで、この時期の自殺念慮については、ヴィトゲンシュタインが自らの性的志向から快楽に溺れ、罪悪感に苦悩していたため、という説も一応ある。  いわゆる「プラーター・エピソード」である。    これはウィリアム・ウォーレン・バートリー三世という米国人の哲学者が、ヴィトゲンシュタインとその哲学を扱った著書の中で物語った逸話であり、その内容はといえば、ヴィトゲンシュタインが日中は教員養成校に通いながら、夜はプラーター公園(というウィーン二区にある、大観覧

          反・自殺論考2.23 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.22 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          外的と内的 何度も自分の命を絶とうと考えたのは、 「完全に外的な理由から」1919年11月16日  自殺の思いに取り憑かれるほど不幸なのは、 「自分の卑しさ、下劣さによるもの」1920年5月30日  という内外の変化についても一通り語っておこう。  この時期のヴィトゲンシュタインは、教員免許の取得を目指し、ウィーン市内の養成校に通う一学生だった。  と入学から半年後、捕虜収容所で知り合った友人の教師、ルートヴィヒ・ヘンゼルに宛てて書いている。  この「同輩たち」とは、同

          反・自殺論考2.22 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.21 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          ラッセルの誤解 唯一にして最後の希望であるラッセルとの会談は、1919年の12月12日にオランダのハーグで実現した。  まだ戦禍の残るこの時期、復員兵のヴィトゲンシュタインと、反戦運動の廉で投獄され、まだ出国が制限されていたラッセルの両人は、中立国で会うしかなかったのだ。  しかし毎朝ホテルの部屋のドアを叩かれ、ラッセルが「私が個人的な話をほとんどできないほど論理学に熱中した」と元恋人に手紙で報告するほど議論を重ねた一週間には、ヴィトゲンシュタインも並々ならぬ充足感を覚えたよ

          反・自殺論考2.21 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.20 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          フレーゲの無理解 ヴィトゲンシュタインを「堕落」に追い込んだ「外的な理由」をもう一つ挙げるなら、彼が『論理哲学論考』の序文で、  と名前を挙げた二人の無理解だろう。  フレーゲには戦後まもなく長姉を通じて『論考』の完成原稿を送ってあり、その返事の手紙を、これまた姉を通じてヴィトゲンシュタインはカッシーノの捕虜収容所で受け取った。  それを読んだ彼の落胆ぶりは、直後に姉とラッセルに宛てた手紙の、  という文面からも明らかである。  とはいえ後者に対しては、半年ほど前の手紙

          反・自殺論考2.20 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.19 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          命を絶とうと では以後、ヴィトゲンシュタインが身体的自殺とは無縁の心境に至れたのかといえば、否である。その窮状ぶりは、戦後も交友を続けていたエンゲルマン宛の手紙にそれなりに垣間見える。  これまで死ぬ死ぬ言いまくってきた彼だから、今さら「自分の命を絶とう」と言われても驚くには当たるまい。  しかし表現は大ゲサだとしても、彼の精神状態がズタボロだったことは確かだと思う。  イタリアの戦場から送られた「僕があまりに劣悪なため、自分自身について考えることができないということです。

          反・自殺論考2.19 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.18 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          財産的自殺 1919年8月、一年弱の捕虜生活を終え、収容所から釈放されたヴィトゲンシュタインは、翌月さっそく自殺を図る。  出版社に送った『論考』が「技術的な理由」とやらで出版不可の判断が下され、そのことにショックを受けた、からではなく、自分の莫大な財産を放棄する意志を表明したのである。  それを「自殺」とか煽るのは止せ、と思われるかもしれないが、これは一家の財産管理を担う公証人が、説得をあきらめて「そうですか。あなたは財産的自殺(finanziellen Selbstmor

          反・自殺論考2.18 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.17 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          兄の自殺 義務である仕事を成し遂げ、親友の死も乗り越え、自殺の危機もついに終了!  となれば、本章も終了できたと思うが、そうはならないのがルートヴィヒのヴィトゲンシュタインたる所以である。  まだまだ危機を煽るエンゲルマン宛の手紙を見てほしい。  ピンセントの日記に「自分が四年以内に死ぬのは確実だといつも言っている」と書かれ、自分の日記にも「僕は一時間したら死ぬかもしれないし、二時間したら死ぬかもしれない」などと書いていたのが思い出されるが、この時ヴィトゲンシュタインは戦場

          反・自殺論考2.17 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.16 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          唯一の友人の死 ピンセントは1918年5月8日、英国空軍の工場で飛行機事故の調査中、テスト飛行のパイロットを務め、墜落死を遂げた。  打ちひしがれたヴィトゲンシュタインは、自殺を企図して山中へ向かう途中、ザルツブルク近郊の駅で伯父と遭遇し、これまた近郊の彼の屋敷に連れ帰られた。  果たして、伯父の家で『論理哲学論考』が今ある形にまとめられ、八月にはウィーンの実家か、避暑地の別荘にて完成したその原稿が、すぐさま出版社に送付される。  タイトルの次頁には「わが友デイヴィッド・H・

          反・自殺論考2.16 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.15 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          もっと善ければ 度々これまでもヴィトゲンシュタインは、部隊の転属を希望してきた。  理由としては、従軍当初から「低俗なならず者」「信じがたい粗野、暗愚、悪意」「人間の中に人間を認められない」などと日記に(暗号で)書き殴り、今の自分は「かつてリンツで学校に通っていた時と同じように、裏切られ、見棄てられている」と被害妄想にも駆られるほど切迫した、同僚兵士との軋轢がまず挙げられる。  それどころか、一部の指揮官たちに対しても「粗暴で愚鈍」「なんて低俗な声だろう。世界の全ての劣悪さが

          反・自殺論考2.15 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          反・自殺論考2.14 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          再び最前線へ「自殺は基本的な罪」  そう『草稿』に書いた頃、ヴィトゲンシュタインは再び戦場に立っていた。  この時期の日記はないが、軍功が記された兵籍簿や、上官の報告書なら複数あり、賛辞が並ぶそれらを見ると、彼の活躍ぶりは想像できる。  無論こうした戦時記録は、誇張して書かれるのが常なので、多少は割り引いて評価するとしても、ヴィトゲンシュタインは砲兵隊の監視係として、この時期も含めて勲章を三回授与されており、終戦時には予備役とはいえ少尉まで昇進していたから、それなりの活躍を

          反・自殺論考2.14 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          『論理哲学論考』をより楽しむための変則的な五作

           本来なら原則的な五作として例えば、  あるいはヴィトゲンシュタイン自身が影響を受けた五作として、 なんかを紹介するのでしょうが、某誌より「論理哲学論考と文化をつなぐ」という企画に寄稿のご依頼をいただき、あまり真面目に紹介しても自分らしくないなと思い、以下の五作を選んだ次第です。  本稿は同誌に掲載された拙文に「ちなみに」以下の部分を加筆したものですが、満載のどうでもいい情報をお楽しみいただければ幸いです。 ノーバート・デイヴィス『恐怖の遭遇』「僕を楽しませてくれて、読

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          『論理哲学論考』をより楽しむための変則的な五作

          反・自殺論考2.13 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

          自殺は罪である その後も論理と倫理を巡る考察が絡み合いながら、1917年1月までノートは書き継がれ、以降は『草稿』も日記も現存していない。  しかしながら1918年の夏には『草稿』の記述がまとめられ、ついに『論理哲学論考』として完成することになる。  こうしてヴィトゲンシュタインが工学から数学を経て、論理学を用いる哲学に転向して以来 およそ七年間を費やした仕事が成し遂げられ、彼は「義務」を果たしたのであった。  よかった。ほんとによかった。  ん?  ちょっと待てよ。  自

          反・自殺論考2.13 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生