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反・自殺論考2.23 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

プラーター・エピソード

 ところで、この時期の自殺念慮については、ヴィトゲンシュタインが自らの性的志向から快楽に溺れ、罪悪感に苦悩していたため、という説も一応ある。
 
 いわゆる「プラーター・エピソード」である。
 
 これはウィリアム・ウォーレン・バートリー三世という米国人の哲学者が、ヴィトゲンシュタインとその哲学を扱った著書の中で物語った逸話であり、その内容はといえば、ヴィトゲンシュタインが日中は教員養成校に通いながら、夜はプラーター公園(というウィーン二区にある、大観覧車がシンボルの広大な敷地を有する遊園地)に通いつめ、その界隈に屯する粗野な青年たちを相手に淫らな性的放埓に耽った、という大変スキャンダラスなものだった。
 それどころか、ロンドンでも同性愛者が集うバーに出没し、そこにいるタフな若者たちを大学の聡明な教え子達より好んだヴィトゲンシュタインが、その生涯の間に幾度もノルウェーの山奥やオーストリアの山村といった僻地に隠遁したのも、性的誘惑が跋扈する都市ウィーンやロンドンの「危険地帯」から自らの身を引き離すためだった!

 とか言われると、いやいや「んなわけねーだろ」と一笑に付したくなる俗説ではあるのだが、発表された1970年代は、まだヴィトゲンシュタインが同性愛者である事実が公には知られておらず、親友ピンセントを想って自慰を繰り返した、
 というふうにしか読めない従軍日記が公開されていない時期でもあり、しかし漏れ伝わる噂によって彼の性的志向が薄々は明るみに出ていた状況にあって、遺族や弟子が存在をひた隠しにする「秘密の日記」を自分は見た、という事実は語らずに示しただけのバートリー三世の主張を、読者が鵜呑みにせざるをえない風潮は確かに存在していたのである。 

 幸い現代では、バートリー三世がヴィトゲンシュタインの宿敵と見なされがちな哲学者カール・ポパーの弟子、という点から類推される悪意を差し引いたとしても、あまりに事実関係の根拠が薄弱なのと、なにより哲学とは無関係な話なのもあって、それこそ公に語られる機会は消滅しつつある。
 そもそも、バートリーが見たとされる「秘密の日記」というのは、本稿においてもさんざん引用してきた第一次大戦中の従軍日記のことだから、その中にプラーター界隈で生じた戦後の逸話が出てくるはずがないのである。
 それでは遺族も弟子も存在を知らず、今の今まで発見されていない、この時期の日記やメモ書き、本件について記されたノートや手紙の類をバートリーが見たのか、あるいは確かな目撃証言なり体験談なりを得たのかといえば、関係者に問い質された当のバートリーが取材源の秘匿を盾に、沈黙したまま逝ってしまったのだから、もはや真相の解明は不可能な与太話なのである。

 ただし未知の日記ではなく、現存するこの時期のエンゲルマン宛の手紙には、

ここ二、三日、ぞっとするよう状態にあります。これほどの苦しみを引き起こすものが何か。まだあなたには言いたくありません。

私の外的状況は今や非常に悲惨なものであり、私の内面まで疲労困憊させています。

1920年1月26日、2月19日

 という意味深な記述も散見されるため、予断を抱きつつこれらを読めば、プラーター・エピソードと結びつけることは可能である。
 しかし、もしヴィトゲンシュタインがバートリーの述べたように性的放埓に耽り、そんな自身の行動に罪の意識を覚えていたのであれば、必ず「告白」をしていたと思われる。

 時代は下って1936年末から翌年始にかけ、彼は家族や友人たちに対し、これまで自分が犯した「罪」の告白を行う。──自分は4分の1ユダヤ人だと思われているが実は4分の3(※父方の祖父母と母方の祖父がユダヤ人で、母方の祖母だけが非ユダヤ人)だとか、童貞だと思われているが実は違う等々、他人にとっては大概どうでもいいが、しかし彼にとっては善くない過去を清算し、己の人生と哲学を刷新するために、是が非でも必要だった懴悔である。
 仮にプラーター・エピソードが事実で、もし彼が自殺しようと思うほど苦悩していたのであれば、この時「告白」していたのではないだろうか。
 でなければ、あれほど「性」にも「罪」にも誠実であらんと望み、自分をよく見せたいという虚栄心を狂おしいほど憎み、己の人生を詳らかに回想したアウグスティヌス──の主著『告白』──を讃えていた人間が、終生この沈黙には苦悩しなかったことになるのだから。


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(24)「告白」に続く

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「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました。 良いサポートにも言えることかもしれません。 ごゆるりとお読みいただき、面白かったらご支援のほど、よろしくお願いします!