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反・自殺論考2.25 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

教師の前後に庭師

 ヴィトゲンシュタインを追いつめた「特定の事実」が何だったかは不明である。
 頻繁に連絡をとっていたエンゲルマンにすら不明だったようなので、未知の日記でも発見されない限り、真相が明らかになることはないだろう。
 唯一つ、不意ではなく平手打ちのように明確なのは、彼が自殺しなかったということ、それだけである。

 結局どうなったかというと、

これから僕がどうなるか、どう人生に耐えるのか、神のみぞ知ります。僕にとって最善なのは恐らく、ある晩眠りについて、二度と目が覚めないことです(でも恐らくは、もっと良いことがあるかもしれません)

 とラッセルに書いた1920年7月7日に、ヴィトゲンシュタインは教員免許を取得した。
 ここで言う「もっと良いこと」とは、半年ほど前の手紙でエンゲルマンに「今の私にとって唯一の良いことは、学校の子供たちに童話を読んであげること」と書き送ったことを指すと思われる。
 一年前、捕虜収容所の囚人仲間に「本当は聖職者になりたいが、教師になっても子供と聖書を読むことはできる」と言っているのはどうでも良い話である。

 少し先の話になるが、予想通りというか予想よりは長かったというべきか、ヴィトゲンシュタインの教師生活は、六年足らずで終わる。
 小学生に算数ではなく数学を教え、逆らう生徒には女子にも平手を食らわせ、村人との軋轢にも(むしろ村人のほうが)耐え忍び、赴任地の異動を重ねながら、子供たちのために辞書作りなんかもして奮闘してきたものの、最終的には殴った男子を失神させ、裁判沙汰にもなったことで、辞職を余儀なくされたのだ。
 で、ふるった暴力に関して、校長や裁判官の前で嘘をついたことと、他の村でも日常的に行っていた体罰に対する懺悔も、1936年の「告白」の中には含まれるが、大分これは先の話になる。

 教師をやめた1926年にも懺悔の気持ちに駆られたか、もともと聖職者になりたかったからか、ヴィトゲンシュタインは出家を志し、ウィーン市街にある修道院の門を叩いた。
 しかし院長に「ここで貴方の期待しているものは見つけられない」「聖職には歓迎できない動機に導かれている」と諭されて断られ、別の修道院の関連施設で庭師をやることになるが、実は教師になる前にも彼は修道院を訪ね、一通りの予備審問を受けて不適格とされ、結局ウィーン郊外の別の修道院で庭師の助手を務めている。
 教員免許を取得した後、最初の赴任地に向かう二か月弱に過ぎないものの、無心で汗を流す肉体労働が、一種の作業療法になったのだろう。

夕方に仕事を終えると疲れてしまって、その時は不幸だと感じません。

1920年8月20日

 とエンゲルマンに書き送った一文は、けだし名言である。

ウィーン郊外のクロスターノイブルク修道院

 まもなく教師になってからも、やがて大学に復帰して講師に、そして教授になってからも、彼が教え子に「大学をやめろ」「手仕事を持て」「普通の仕事をすべき」「哲学以外の方法で生計を」と説き続け、彼らが実際そうすると喜んだのは、この庭師体験あってこそかもしれない。
 ちなみに原体験は、トルストイの宗教心と清貧生活に対する憧れであり、その想いが頂点に達した時期に彼はロシア移住を志し、集団農場で働くことを夢想するものの、事前の視察旅行で夢やぶれるのは、大分これまた先の話である。 

 ちなみについでの蛇足になるが、
「庭仕事にも知性が大切なのが分かったよ」
 という名言もこの庭で生まれた。
 一年前に「エセの知性主義にかぶれた」と友人を非難し、一年後には「賢さより善が優る」と恩師に大真面目に説き、数十年後には「知恵は冷たいが、信仰は情熱」「知恵は灰色だが、生と宗教はカラフル」などと嘯くことになる哲学者が、通りがかった修道院長に告げられた迷言である。


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(26)「余計なエピソード」に続く

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「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました。 良いサポートにも言えることかもしれません。 ごゆるりとお読みいただき、面白かったらご支援のほど、よろしくお願いします!