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知ろうとする優しさと、わかろうとしない優しさ。映画『夜明けのすべて』

私が住む鳥取市から、大きな映画館までは車で片道1時間半かかる。(市内には”鳥取シネマ”という小さなシアターはあるが、上映している作品は2-3作品ほどで、なかなか観たい映画は上映していない。)東西に細長い鳥取県の東側に当たる鳥取市から、西の方へ、倉吉を過ぎて、北栄町の海沿いに並ぶ風力発電を見上げて、天気の良い日は大山を左に眺め、ようやく映画館がある日吉津イオンに辿り着く。

行きに1時間半、映画をみて約2時間、帰りに1時間半、最短でも5時間かかるので一日仕事だ。仕事じゃないのだけれど。そんななので、できれば「わざわざ観に来るほどでもなかったな…」という後悔はしたくないわけで、観る映画は厳しい目で吟味したい。のだが、予告編をしっかり観てしまうと映画を観る楽しみが半減してしまうこともあるので、難しい塩梅だ。

今日観てきた「夜明けのすべて」は、ほとんど予告を観ずに、観ることを決めていた。三宅唱監督、メインキャストは上白石萌音ちゃんと松村北斗くん、原作は瀬尾まいこさんの小説、というだけで観ることを決めるには十分すぎる情報である。さらっと予習したところによると、萌音ちゃん演じる“藤沢さん”はPMS(月経前症候群)の症状で月に一度どうにも抑えられないイライラに見舞われている。一方、北斗くん演じる“山添くん”はパニック障害を抱えている。そんな二人が、同じ職場で出会うというストーリー。

PMSとパニック障害、という設定から、観ていて辛くなる話なのかな…などと正直心構えをしていたところもあったのだけれど、観終わった感想としては全く逆で、洗い慣らしたやわらかいガーゼで全身を包まれるような優しさに満たされて劇場を後にした。

観終わった直後は「なんだかすごくよかったなぁ」というようなぼんやりとした感覚だったのが、帰り道を運転していると、少しずつ「ここが良かったな」とか「私はこういうことを感じたんだなあ」とかいうように、明確になってくる。そんな時間を持てるのは、片道1時間半のいいところだ。

先述したように、映画を観た直後に感じたのは「優しさにあふれている作品だったな」そんなことだった。そのうち、優しさと一言に言っても、藤沢さんと山添くんの二人の関係性、そしてそれぞれを取り巻く人々との間には、いろんな種類の優しさがあったことに気づいた。

例えば、山添くんが藤沢さんを“知ろうとする”優しさ。
パニック障害の発作に苦しむ山添くんに、藤沢さんが「私もPMSで。お互い大変だよね。」みたいな寄り添う言葉をかけるシーンがある。その時山添くんは、「パニック障害とPMSでは辛さ(のランク)がそもそも違う」というようなことを返す。言葉にこそしていないが、おそらくPMSを「女性ならみんな感じる生理に伴う痛さやちょっとした気持ちの落ち込みのこと」と捉えていて、自分が抱えているパニック“障害”とは違うだろう(この辛さを一緒にしてくれるな)、という意味だ。一度はそのように「わかったつもりで知ろうとしない」山添くんだが、その後彼はPMSの本を読んで知識としてまず知ろうと動く。そして、PMSを知るだけで終わらず、PMSの症状が出る時の藤沢さんの兆候や、イライラが爆発しそうになった時の対処法(洗車をして気を落ち着かせる)を、山添さんと過ごす中で見つけていく。PMSを知ることで、山添さんを知ろうとしている。

では、知ろうとすることだけが優しさなのか。
優しさとは知ろうとすることなのか、というとそうとも言い切れない。
山添くんの発作や、藤沢さんが急に糸が切れたようにイライラを爆発させる場面は、職場でもたびたび訪れる。その度に「一旦外に出ようか」と促してくれる社長(町工場の作業着が似合いすぎる光石研さん)や「はいは~い、大丈夫よ~」と背中をさすってくれるお母さんみたいなベテラン女性社員は、「パニック障害」や「PMS」としてその症状を見るのではなく、山添くんの発作、藤沢さんの発作、として見守っている。初めて山添くんの発作を見て驚く藤沢さんに「山添くんはパニック障害だ」と説明することもなければ、突然大声で怒る藤沢さんに驚く子供たちに「藤沢さんはPMSだからこうなるんだよ」とも言わない。
もちろん部下として見守るために、それぞれの病気に対して最低限の正しい知識を持ってはいるだろうけれど、知っているからといって「わかろう」としたり、病気と症状を繋げて「(表面的に)理解することが正しい」というような姿勢はない。わかろうとしない優しさがそこにある。


知ろうとすることと、わからないままあること。そこにある、優しさ。
知ろうとしないことと、わかったつもりになること。そこにある、暴力性。
表裏一体であることは確かで、その違いはなんなんだろう。帰り道の1時間半では答えが出ずに、お風呂の中で再び考えていたら、一つ思い浮かんだことがある。

興味本位か、そうでないか。

自分が知ろうとする時に「ただ知りたい欲」だけなら、それは暴力性を帯びる可能性がある。自分がその事象や人に対して「こうあるために知りたい」ではなく、一時的に高揚する興味のままに知ろうとするとき、人は、わかりやすいストーリーや一面的な理由と結果を求めたがる。藤沢さんはPMSだからイライラしているとか、山添くんはパニック障害の人だ、とか。
興味本位で知ろうとするだけなら、関わらないほうがよほどいい。

興味本位ではなく、知ろうとすること。
興味本位ではないから、わかったつもりにならないこと。
そこには優しさがある。山添くんが、藤沢さんのことを、自分ができることの中で助けたいから知ろうとしたり、職場の上司たちが、山添くんや藤沢さんを大切にしたいからわからないまま受け入れること。それは一時的に高揚する興味ではなく、長い関係性の中で自分がどうその人と向き合いたいかという気持ちがそうしている。


今私はどっちだろう。
興味本位か、そうでないか。

手元にはいつもスマホがあって、考えずとも機械的に検索ができて、フェイクばかりの中に本物を探す日々で。だからこそ、一度立ち止まって、自分の目で、本当の優しさを渡せられる方を選べる私でありたいと思う。

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