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「真っ直ぐな人」に救われた

今週、久しぶりに仕事で自分の未熟さと向き合わざるをえない時間があって、かなり気持ちが沈んでいたんですけど、周りのヒト(他者)に恵まれ、かなり元気を取り戻した、って話です。忘れたくない気持ちがたくさん湧いてきていたので、久しぶりにnoteに戻ってきました。私にとってnoteはいつでも帰れる実家のような場所みたいです。ありがとう、note。

さて、何があったかって、具体的にはプライバシーの問題もあるので書けないので、抽象的にはなりますが、そこはご容赦を。

半年前に、私は仕事で取材相手に不快な思いをさせてしまいました。

ある事故の被害者への取材でした。

取材した材料を元に私は記事を書き、上司に赤ペンを入れてもらい、記事が完成して、世に出しました。
ただ、その記事の内容が、取材相手にとっては満足のいくものではありませんでした。

取材相手の思い、伝えたいことと私の作成した文章とはギャップがありました。

事故の被害者にとって、事故で苦しんで、さらにそれについて語ることはさらにとてもエネルギーを要するはずなのに、取材相手の思いを汲みきれないままに世に出し、またさらに傷つけてしまった。

「ここはこういう表現にしてほしかった」などの指摘をたくさんいただき、自分の取材の仕方の荒さをご指摘いただいた。

とても申し訳なく思うとともに、自分が犯したことの重大さに向き合いたくないと思ってしまうほどに辛かった。辛かったというのも甘えなのだと今では思う。

無論、報道機関として、取材相手の言いたいこと・伝えたいことをそのまま流すことが仕事ではない。それではただの広告塔のようになってしまう。取材した内容を、記者のレンズを通して(というとおこがましいが)、編集して世に出すのが仕事だ。

とはいえ、事実には忠実に基づいている必要がある。(偏向報道だとか事実じゃないとかで「マスゴミ」と世間で揶揄されているのは承知だが、少なくとも私は事実を伝えることを裏切ろうと思ったことはないということを一応申し添えておく)

その事実に忠実に基づくという点において、今回の場合、取材相手からしたら、私がそれを守れていないというジャッジだった。上司の編集によってさらにニュアンスが変わってしまった部分はあったが、それも含め、窓口となって取材していた私の責任だと今は思っている。というか思うことにして、この反省を深く心に刻みつけたいと思っている。

一度世に出てしまったら、それは残り続ける。(記事の掲載を取りやめて欲しいとまでのお願いはなかったので、そのまま掲載させていただくことができたのだ。)取材相手をどれくらい傷つけてしまったのか、私には完全には理解することはできないけれど、傷つけてしまったのはたしかだ。

直後、私からは謝ったが、直接には私の上司が出向いてくれて謝ってくれた。取材相手も、謝罪を受け入れてくれたようだった。

そしてつい最近、半年くらいぶりに、その取材相手に直接会える機会があり、上司や同期に後押しされ、直接会いに行ってきた。

正直怖かった。面と向かって怒られるのではないか、とか、もはや私の顔を見たくないのでは、とか、色々想定した。どんな言葉を伝えようか考えあぐねても、適切な言葉が一向に見つからず、ただただ情けなかった。

取材相手と会うのは土曜日の午後だった。午前中に会社の他の支局の同期と会う約束があり、半年の経緯を全て話した。「あなたが悪いことをしたとは私は思わない。彼女にとって納得のいく文章じゃなかったかもしれないけれど、こちらで編集して世に出すのが私たちの仕事なわけで。傷つけてしまったことに対して謝るのはいいことだと思うけど」と彼女は言ってくれた。同じ仕事をして、似たような経験をしている同期だからこその共感と励ましの言葉は、私の心をやさしく撫でてくれた。それまで緊張で心が張り詰めていたけれど、空気が抜ける風船のように、一気にゆるんだ感覚があった。私はなんてすてきな同志に恵まれたんだ。

自分の犯した失敗やミスを話せるヒトは少ない。今回の件は家族にだって話していなかった。変なプライドが邪魔しているのか、心配をかけたくないからなのかは自分でもよくわからない。多分そのどっちもなんだと思う。あとは、話すのにエネルギーと覚悟が要るっていうのもあると思う。

同期にも、半年前、事があった直後に話そうと思いつつ、話すタイミングを見つけられないままここまで来た。今日ようやく話せてとても気持ちが軽くなって、ましてやたくさんの元気をもらった。

よし、もう何が起きても大丈夫。自分は自分なりの誠意を見せるしかない。そう思えた状態で、取材相手と会う場所に向かった。同期には本当に感謝している。

半年ぶりの再会。会う場所には、事故の他の被害者らもいたので、いきなり1対1の機会が作れるというわけではなかったが、約束の場所に着いて目が合った時、取材相手の眼差しと表情は優しかった。まず少しほっとした。

その後、1対1の時間を少しもらい、お詫びとお礼の言葉を伝えた。

「私の至らなさで傷つけてしまい、申し訳なかったです。この仕事をしていると、必ずしも取材相手の意向に完全に添えないことはあるので、これまでも私はもしかしたら色んな人に色んなことを思われてきたのだと思います。ただ、それを指摘していただける機会というのはなかなかにないので、今回指摘していただけて、とてもありがたかったです。改めて、申し訳ございませんでした。」

大体こんなようなことを伝えた。

「本当はあなたの上司によるところもあるんでしょ?あなたにだけ言ってしまってごめんね。まだ1、2年目なんでしょ?そりゃそんなもんでしょ。私は色々と思ったことは言ってしまうタイプだし、あなたが言うみたいに周りから言ってもらうこともないだろうと思ったから言ってしまったけど。お仕事引き続き頑張ってください」

こんなようなことを言ってくださった。

私が思っていた以上に、相手は怒っていなかった。いや、怒っていたのかもしれないけれど、許してくれたように感じた。私の謝罪とお礼を受け入れてくれた。胸を撫で下ろす、とはこういう時のことを表す言葉なんだろうな。

今回の取材相手は、事故と向き合い続け、自分自身とも向き合い続けている方だった。その点に置いて惹かれ、「この人に取材したい」と強く思ったし、「この人の言葉を世に残したい」と強く思ったのだった。
そんな取材相手は、自分以外の他者とも真剣に向き合う人だった。間違っていたら間違っているとストレートに伝える人だった。

帰り道、自分の未熟さを反省すると同時に、そんな真っ直ぐな方に出会えた自分はなんて恵まれているんだろうと、胸が熱くなった。落ち込む原因がヒトであれば、元気を取り戻すのもまたヒトのお陰だな。結局私はヒトのことがかなり好きみたい。

今の仕事に毎日100%満足しているわけではない。むしろ最近は不平不満ばっかり吐いていた。土日に仕事が頻繁に入って週休2日が約束されていなかったり、上司の言葉が時にきつくてストレスを感じたり。

でも今回みたいに、ヒトやコトバの難しさ=奥深さを知れる仕事だとも感じる。そう感じる度、やっぱり私にはこの仕事しかないのかもしれないとまで思ってしまうこともある。日々いろんなヒトに会って、いろんな思いに触れ、すてきなコトバをいただいて、それを書き残せる仕事。それでお金をいただけているなんて、やっぱりラッキーすぎると思う。

不満はまだ消えないけど、このnoteを書いて、改めて自分の仕事の貴重さ・面白さに気付けた。やっぱりnoteありがとう、だ。

メリケンパークのスタバのテラス席で海風を感じながらゆっくり書いていたら、とっても長くなった。ここまで読んでくださった方がいらしたら、毎度のことだがありがとうございます。

今日もみなさんが穏やかに過ごせていることを神戸の地から祈っております。雲ひとつない空と穏やかな海を見ながら、友達と家族の顔を思い浮かべて。
またふとnoteに帰ってくるでしょう。その時まで。

余談:フラペチーノをなんとか飲み終えられそう。そろそろ私はフラペチーノ卒業が適当かもしれない。せっかくnoteを楽しく書いたのに、胃の様子が芳しくない。頂き物の700円チケットをフル活用してグランデサイズのホイップクリーム増量(?)にしたのが原因だ、、(店員さんにお任せにしたからドリンクの内容をよくわかっていない(笑))欲張っていいことなんて、やっぱり、ない。

2023/11/5 モロヘイヤ



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