「〜のように」が私に重くのしかかる

小説を読んでいても、専門書を読んでいても、簡単なTwitterの文言にも、「〜のように」が頻出する。

「アクリル絵の具で描かれたべったりとした空のように〜」「粗雑な愛を見つけた青春時代のように〜」とか。

この「〜のように」が私に重くのしかかる。

〜のようにとは、例示表現であって、何か著者の言いたいことを著者が分かりやすいように、異なった言い方をしてくれるものである。

つまりそれは、著者の言いたいことを翻訳してくれる文言で、私は著者と私を繋ぐ架け橋。

「〜のよう」にがあることで、難解だった文章も、最も簡単に理解できることもある。そこには優しさがたっぷり詰まっている。

ただ優しさの裏には、それを理解しないといけないという厳しさがある。

時に優しく翻訳してあげてるから分かるよね?と言われ、時にこのレベルまで落としてあげてるんだからさ、ね?と言われてるような感覚。

有無を言わさぬ圧力。

この高圧的な態度が、私の小心者の心を見透かしているようにも感じ、「〜のように」が来ると、少し背筋を伸ばす自分がいる。

「〜のように」が常に私を試しているようで、
「〜のように」が常に私を判断するようで。



ただ、私も30歳になった。
文章をよく読む方ではないけれど、年を重ねただけあって、20歳の頃よりも文章を読む回数は増えた。

だからか、最近少しだけ、この「〜ように」に出会った時の感覚が心地よく感じるようになってきた。
ピリッとした緊張感に鈍化しているのか、もしくは私が図太くなったのか。

親は子供いつまでも子供扱いする。子供の声なんて、何歳になっても届かない。
「ちゃんとご飯を食べなさいよ」とか
「周りの人を大事にするんだよ」とか
一方的な教育目線。

歳を取るとこれがなんだか心地よくて、少し嬉しくなってしまうことがあるだろう。

なんだろう、最近「〜のように」にはそんなうれしさを感じる。



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