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『問題意識』って、なんだ?




『問題意識』とは、そもそも、何なのだろう。


そう思うきっかけがあった。どんなきっかけかは割愛。起承転結の「起」を省くという意味だから、文章の構成的にはあまりよろしくないのかもしれない。が、ご了承いただきたい。とにかくそういうきっかけがあったのだ。





まずは、自分の感覚で、自分の知識の範疇で考えてみる。


私は普段、何を問題としているだろう。

「問題」と聞くと、まず思い浮かぶのは、学生時代の時に触れてきた、国語とか数学とか、そういう教科ごとの「問題」。ワーク、プリント、テスト、などなど、様々な「問題」に触れてきた。そしてそれに答えてきた。
例えば

『次の方程式を解きなさい。2x+1=5 』

これを「問題」と捉えることはできる。では、この問題を「問題だなぁ」と意識することが『問題意識』であろうか。いや違うだろう。それは誰しも簡単に容易に感覚的にわかるのではないかと思われる。これが、「3日後、高校受験を控えているのにこの問題が解けない」ということであれば、「問題」だが、この方程式の問題(question)自体の「問題(problem)」ではない。日常とは無関係に無作為に出題された問題に対して『問題意識』とは言えない。クイズ番組なんかで出される問題も同様に「問題」ではあるが、『問題意識』という言葉で使われる「問題」とは意味合いが異なるだろう。もう明確な答えは出ているが、questionとprogramは意味が違う。
つまり『問題意識』というときの「問題」は、「クイズ」とは異なるニュアンスであるということである。


では、「問題」とは「困り事」ではなかろうか。
私の「困り事」を考えてみる。私の最近の困り事は、「自分が不健康であること」である。健康的に毎日を過ごすために筋肉をつけたい。筋力アップをしたい。だから、毎日筋トレを取り入れルーティン化したい。でもそれができない自分のその怠惰な面が「どうにかできないかなぁ」≒「問題だな」と思っている。どうやったら、毎日の生活に筋トレを取り入れられるのか。所要時間や筋トレの内容など、何か工夫できないかと試行錯誤する毎日である。では、この問題について考えることを『問題意識』と言うだろうか。それも何か違う気がする。『問題意識』というには、あまりにも自分事すぎる。つまり「自分だけの困り事」に関する事は、たとえどれだけ深刻な問題だったとしても、『問題意識』という言葉の「問題」とは意味合いがずれる。
家族などの身内間の問題も同様。つまりパーソナルな困り事ではない、あるいは、パーソナルな困り事に留まらない、ということ。


自分だけでなく、自分の身の回りで起こっている困り事や、もっと大きく、社会の中での困り事を「問題」とし、それを意識することを『問題意識』とすると、まあまあしっくりくるんじゃないかなと思う。ニュースなんかで聞くような「差別問題」「貧困問題」という問題を持ってくれば、それについて深く考えるその意識を『問題意識』と呼んでも、誰も変には思わないだろう。つまり“しっくり”くる。こういう大きな枠組みの問題を「社会問題」と言っているわけだが、社会問題についての意識は、例えば「私は、男女差別について『問題意識』を持っています」と言っても、文脈として全く不自然ではない。「私は筋トレが続かない自分について『問題意識』を持っています」と言うと、ちょっとギャグっぽく聞こえる。


では、どこまでが「社会」という枠なのだろうか。以前「社会とは何か」「社会性とは何か」について調べたことがある。「社会」とは、明治時代にsocialの和訳に当てられた言葉で、もともと日本にはなかった概念だそうで、正直私は非常に捉えづらい概念だなと感じた。「社会」という言葉が登場するまでは「世間」という言葉と概念が、「社会」に近いものとしてあって、日本人にとってこの「世間」という概念の方が、今の「社会」を捉える際に重要なヒントになっている気がする。


話がずいぶんそれてしまったので一旦戻そう。



ここで初めて『問題意識』の意味を調べてみる。



なるほど。
「主体性」「心の持ち方」という言葉が共通している。「心の持ち方」=「意識」として良いだろう。では、「主体性」とは?

「自主性」と「主体性」の違いについて、こんな記事があった。

「主体性」とは、「やるべきことを決める決めるのは自分(の内)」で、「自ら考えて行動する」性質を持つということ。


さらに、こんな動画も発見。


「主体性」と「当事者意識」。
なるほどなるほど。『問題意識』の意味を考えるにあたり、「当事者意識」は大事な気がする。『問題意識』とは何かを考える時に「当事者意識」→「自主性」の構図があるように感じた。

社会問題は、一個人が「問題だ」と認識した上で、「どれだけ当事者意識を持っているか」で、ずいぶん捉え方が違ってくる。テレビや新聞で繰り返し報道されるような社会問題は、おおよそ多くの人が「問題だ」とは思うのだと思う。そこに「当事者意識」が乗っからないと「問題だと“思う”」「心配だ」「可哀想だ」「誰かが解決してくれないかな」「政治家は何をやってるんだ」という、感想や他への文句止まりで、それ以上の何かは生まれない気がする。「当事者意識」を持つことで、気づいたり考えたりできる問題の根幹や原因や解決策があり、かつ「主体的に」思考し行動できる。「当事者意識」があるから「このままではまずい」という気持ち、「なんとかしたい」という気持ちが生まれ、“その重要性を見抜き”、問題を「主体的に」知ろうとし、「主体的に」学び、「主体的に」解決へ向けての行動をとる。

そう考えると、「『問題意識』を持っている」=「どれだけ行動が伴うか」に尽きる気がする。気持ちや自身のあり方は測り用がないから。






ここでふと思う。

「当事者意識」を持てる、ということは、自身の価値観のアンテナが感知しているのではないか。
「価値観」と「問題意識」には共通項がありそうだ。
では、2つの違いは?

これはまた別の機会に書こうと思う。

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