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明確で不明確な。

友人からやってみて。って個性を16に分ける性格診断テストなるサイトが送られてきた。

ふむふむ。って、何となく質問に答えていったら、「あなたは○○タイプです」って言われてね。

その説明を読んで、うーん…しっくり来ないなーって、しばらく唸ってました。

で、もう1回したら、別な答えが出た。

そうかー。私はカテゴライズされるのが苦手なんだな。

○○占いとか、しっくりこないんです。

生年月日とか質問に答えた先にある、「あなたは、こういう人間です」を読んで100で納得する方って実は少ないんじゃないかなー。文章の中にいくつか「そうそう!」って思えるパーツを見つけて拾い読みして、「やっぱりそうだ!」って思えるパーツを集めている気がする。他の当てはまらないと感じる部分はあまり目に入っていないんじゃないかなーと思うのです。みんなの素敵な個性を大まかになんて分けられるかなー。

「やっぱり」を作り出す事によって得られるのは、自分という存在を明確化させる快感、安心感。何かにカテゴライズされる事によって、自分と何かとの境界線を作り出したいのだろうなー。

で、何で私が苦手かというと。本来、私たちは不明確な存在なんじゃないかなと思っているから。

様々な発信源からの情報は溢れ、幼い頃からの善悪なんかのすり込みが染み渡り、憧れや尊敬の対象からの影響は大きく、そんな中から自分の源を探すのが困難な程に自分以外からの影響は計り知れない。

私は、ここに自然界が入るからもうぐちゃぐちゃのごちゃごちゃです。

自分を作っているパーツは、自分だけじゃないと思って生きているから、カテゴライズされると「どれのこと?」ってなっちゃう。

何にもカテゴライズされない不明確な存在として生きることは、不安に感じる必要はなく、恥ずかしいことでもないと思うんだけど、いつの時代も様々な占いがあって、「自分探し」とかされる方が多いところを見ると、自分とそれ以外を分けて自分を明確化したいんだろうなー。

森にいると、私はよく溶けちゃうんです。森を理解したくて色んな目線から観察していると、自分なんていらなくなるから。夢中になって、とろんと溶けて、ただただ観察して、私ではなく役割として存在すると、私なんていらなくなっちゃうから。そうすると、とても楽。ただただ楽しくて得意な事をしてみんなが喜んでくれる。観察もお手当ても原理は一緒なんだけど、夢中になればなるほど、集中する程に私はいなくなる。必要なくなる。

明確化させたくて行う占いとか診断で自分をカテゴライズした後に生まれる感覚は、実は不明確化させるなんて事はないかなと思うのです。大きくて曖昧なカテゴリーに自らを所属させて、安心しながら、実は不明確な美しいマーブルパターンの中で生きているという不確かな感覚を持つみたいな。でも、よーく観察すると、そのパターンを作り出す色たちは決して粒子レベルでは混ざらないから、微細な観察が出来れば実は明確というオチ付きだけど。

大きな室内プールでゆらゆら泳ぐのも、インド洋で浮かぶのも、温泉にゆっくり入るのも気持ち良い。選ぶ自由はあるけれど、求めるのならば選択は絞られる。

自分は不明確な存在だと理解して生きている人が、「あの人は自分を持っている」なんて言われているのかもしれないなーと、ふと思いました。

理解すべきは、不明確な個性ではなく明確な役割。

太文字なんて使って偉そうにしめてみました。


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