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ケアする私、時々ケアされる私(配信#4)

年始にワイちゃんを連れて台北へ行ってきた(写真はその時に食べた鹹豆漿です)。台湾の人たちは子連れ・子どもにとても親切で、podcast配信#4のテーマタイトルにある通り、最初から最後までピースな気持ちで滞在することができた。

今回は上記テーマに絡めて、育児を通してケアすること/されることについて書いてみたい。

育休中の私は、赤子のワイちゃんを一日中ケアしている。ケアの主たるものは食事の提供と排泄の処理だが、他にも、着替えさせる、爪を切る、お風呂に入れてスキンケアをする、寝かしつけをする、泣いたらあやすなど色々ある。遊びに付き合ったり語りかけたりするという少し教育的なケアもある。そのように大小様々なケアを提供する私も、ワイちゃんを連れて外に出れば、電車やバスで席を譲ってもらう、建物のドアを開けてもらうといった小さなケアを提供される側となる(「親切な人に遭遇したら」という条件がつくけれど)。

ケアをめぐるこの「立場の転換」を初めて実感したのが、生後1ヶ月のワイちゃんを抱いて近所の青果店に行った時のことだった。少しスーパー的な要素もあって繁盛しているその店は通路が狭いためほぼ一方通行で、ごちゃごちゃした人の流れがそのままレジの列に変わる。混雑の割にレジは2つしかないためそれなりの時間待たされてから会計の段となり、私がゴソゴソと財布を取り出していると、レジ打ちの若い女性が何も言わずに私の買い物かごをひょいっと持ち上げて袋詰めのスペースまで運んでいった。
私は何が起きているのか咄嗟には理解できなかった。この店はこういうシステムなのか?と思って周りを見渡したがそんなことはなく、ほどなくして自分がワイちゃんを抱いているから運んでくれたのだと思い至り、「あ、ケアされた」という感動を覚えた。背後には長く延びた客の列があり、お店としては少しでも早くレジ打ちを処理した方がいいだろうその状況が「わざわざ感」を演出して、感動に一役買っていた。

今になって考えてみるととても些細なケアで、お店のマニュアル的な対応だったのかもしれないが、とにかく私は感動した。その時期、妻は出産ダメージの影響で寝たきり状態で、私は家にこもりきりで彼女とワイちゃんのケアをしていた。そんな自分も、ワイちゃんを連れて外に出て、親切な人に行き合えばケアされる対象になる。ある意味では当たり前であるそのことを私は全く自覚していなかったので、不意打ちを食らうような形となり心を動かされたのだと思う。

ケアする私は、時々ケアされる私でもある。育児はその2つの「私」を行き来する体験とも言える。家では、自力では生きていけないワイちゃんをせっせとケアをし、外に出れば、不自由で弱い立場に回って、時々はケアされる。それら全てが、これまでマジョリティ男性として自由に過ごしてきた「私」にとっては特別な体験となっている。


※付記:今回の配信についてお便りをくれた「そらまめ」さんという女性は、子どもを出産してから知らない人に話しかけられることが増えたが、「話しかけてきた人が子供に危害を加えてくる人か優しい人なのかどうかをいつも警戒し、とてもストレスだった」と書いていた。正直なところ、私はそういうストレスをほとんど感じたことがない。これはそもそも「自分が危害を加えられるかもしれない」という意識が薄いからだと思われる。だとすると「知らない人に優しくされた☆ピ〜ス!」と私が能天気に語れるのも、男性ゆえのことなのかもしれない。あと男性としての自分は、育児をしているだけで「偉いねえ」と言われることも多く、自尊心が満たされるピ〜ス!な機会はその点でも多い。

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