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人間くさい文章、に惹かれるきっと。

文章の真髄とは、これに尽きるのではないだろうか。
僕は、その人がどんなことを考えて、どんな暮らしをしていて、どんな本を読んでいて、そういうことがたまらなく知りたいのだが、それを説明されたいわけではないのです。というより説明されても困る。

要するに、私はこんな人です。って教えてくれなくて良いんだけど、でもその人の文章を読んでいると、ああ多分あたたかいひとなんだろうなあ、とか聡明な方なんだろうなあ、おもろいひとなんだろうな、とかそういうものを想像することがとても楽しい。おそらく、その想像、というか僕が勝手に捉えたイメージのようなものって、限りなくその人に近いものなのだと思う。

文章って不思議なもので、その人が出てきてしまう。1度くらいは誤魔化せるかもしれないが、何度も書いていれば、そこに自分を消すことって、相当難しいのではないかと思っている。
何度も、挑戦しようと思った。かっこいい文章を書いてあっと言わせてやろうとか、そういうことを。でも無理でした。

だから、正直になるしかない。自分をそのまま曝け出すしかない。でも、それが良いんですよね、きっと。それで良い。

文章で自分のことを伝えようとする人って、多分なんですが、いろんなことを深く、もしくは幅広く考えている人だと思うんです。

でも、考えすぎると、どうみられたいのか、とかどう読まれたいのか、とかそう言う余計なもの、邪念のようなものが混じってしまうと良くないと思うんです。ここが難しいところですよね。

僕も、こいつおもろいな、とか、なかなか鋭い視点を持ってるな、とかそんなふうに思われたいし、そうでありたいという欲に溺れてしまうことがある。でも、そうやって色々考えていると、書けないんですよね、残念ながら。文章はテクニックではどうにも越えられない壁があるのだと思うんです。

そうなると、もう自分のことをそのまま書くしかない。それで勝負するしかない、それで上手く行くまで続けるしかないんだと思うんです。
だからこそ、その過程の泥臭さと言うか、人間臭さ、みたいのにたまらなく惹かれるのだと思う。僕自身がそうやってもがいているから、そういう文章を見ると、あ、いいな、と思ってしまう。

とここまで書いていて、一体何様なんだよ、と思わず自分にツッコミを入れたくなってしまったのですが、続けようと思う。これは僕にとっても重要なことだと思うから。

僕にはまだ、誰かに伝えられるようなことや、有益なことを発信できるようなものは持ち合わせていない。まだまだ駆け出しだ。修行中だ。他の方の文章を読んで、圧倒され、打ちひしがれている。悔しいと思う。

それでも書くということについて少しだけわかったことがある。

それは、書くという行為は、自分自身を再発見する手段である、ということである。
僕にはこんな一面があったのか、とかこんなことを考えていたのか、と言うことを知る、理解する、そして深めていく。

その繰り返しの行為が文章を書くということであって、そのぐるぐるとした循環の中で自分の文章というものが生まれてくるのだと思う。
でも同じところをただ、ぐるぐるしても仕方がなくって、時には流れに抗うことも必要だと思うんです。

遡上するサケのように、なんとか何処かに辿り着こうと粘り続ける。
サケはきっと上流に辿り着くまで頑張るのだろうけど、僕はどこまで頑張れば良いのだろうか。
文章の難しさと言うのは、明確なゴールがないということ、もあるかもしれません。それでも少しずつ進んでいくしかないのです。

僕は、日記を書き続けることで、この一年は自分自身を曝け出してみようと思っている。文章が上手くなったという実感はないが、「楽しい」という気持ちは強くなってきている。それで良いのかもしれない。

僕は、ただ流される人生はもう無理だ。抗ってみようと思う。
それってものすごく格好悪いことかもしれないけれど、そうやって自分自身と向き合うことが今の僕に必要なのだと思っている。


なんだかまとまらないわけのわからない文章になってしまいましたが、結局は、書くという行為は、わからないから生まれるのだと、それらしいことを言って誤魔化しておきます。自分がわかってしまったらもうつまらないじゃないですか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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