のんのんでり【レズパコ#13】
母は線の細い人だった。ふうっと息を吹きかけるだけで輪郭が消し飛んでしまいそうなほど儚げだった。
入退院を繰り返す母はほとんど家におらず、いたとしても眠っていることが多かった。母がいつかいなくなってしまうことを、私はかなり幼いころから予感していた。それは一年後かもしれないし、明日かもしれないし、今日かもしれない。
あるとき、母と父と三人で海へ出かけた。浜辺には人影がなく、少し肌寒かったので、秋ごろだったと思う。母は体調が良かったのか、めずらしくはしゃいでいた。走ったり水に入ったりはしなかったけど、波打ち際を裸足でのんびりと歩いて、貝殻やシーグラスを拾ったりしていた。
嬉しくなった私は犬のように駆け回っていた。寡黙な父もその日は笑みをたたえていた。ときおり涙をにじませて目を細めていたのがうっとおしかったが、私がふざけてちょっかいをかけると、くすくす微笑む母につられて楽しそうに笑っていた。
病床の母の前で、私はいつもおどけていた。一緒に見ていたプリキュアの替え歌、ふたりはプリケツを歌いながらお尻を振るダンスは鉄板のネタだった。
笑いで免疫力が向上して病気が治る。テレビかなにかで得たそんな知識を真に受けて、私は奇跡にすがっていた。そうでなくとも、年がら年中沈鬱な雰囲気でいるよりは、笑っているほうが気分も楽だった。
なでたり、さすったり、母に触れるときはいつも慎重だった。父には抱っこもおんぶもしてもらった記憶はあるが、母にはそもそもねだることさえしなかった。母におんぶしてもらう。それは砂の城に住みたいとか、トランプタワーにのぼりたいとか、雲の上で眠りたいという幼い願いと同じくらい、叶うはずのないバカバカしい願いだった。
シーグラスを夢中で拾い集める母の背中は、澄み切った秋の空の下、まるで健康そのものだった。0.2mmのシャーペンでなぞったような輪郭が、その日は2Bのえんぴつで描かれているように色濃かった。
だから私は思わず母の背中に飛びついてしまった。だいぶ浮かれていたのだろう。
案の定、母は不意打ちでのしかかってきた娘の体重に耐えられず、潰されて膝をついた。まずい、と思ったのもつかの間、母はどうにか身体を起こして私をおぶろうとした。父が駆け寄ってきて母の肩を支えた。私はすぐに離れて、反対側から母の顔を覗き込んだ。
大丈夫、と言いかけて母は激しく咳き込んだ。排水口が詰まったような嫌な音がした。母の小さな手のひらに握られていた貝殻やシーグラスが、黒い血に染まった。
「ふふっ、ギャグ漫画みたい」
とてもそんな状況ではないのに、母が喉を絡ませながらつぶやいた。慌てふためく父と、大泣きする私を、吐血したばかりのいちばんの重症人がなだめようとしていた。
それから私は二度と母に飛びついたりはしなかった。病院でいくらふざけ倒しても、大声ではしゃいでも、ベッドに体重をかけることさえしなかった。
母の葬式で私はいつものようにプリケツダンスを踊った。棺にしがみついて泣く父を見て、そんな乱暴に触ったら母が壊れてしまうではないかと心配になった。しんみりとした雰囲気に耐えられず、私は葬儀のあいだずっとハイテンションで暴れていた。
昨日、のんと岩屋戸から引き返したあと、二人でシャワーを浴びた。
キスをしたり抱き合ったり笑い合ったりしながらも、私はのんの両膝から流れる血のことばかりが気になっていた。後ろから何度もぶつかられ、岩盤で削りおろされた膝は、肉がむき出しで、見ているこっちが顔をしかめたくなるくらい痛々しかった。実際相当痛いはずなのに、興奮して痛みが麻痺していたのか、痩せ我慢をしていたのか、のんはまったく怪我には無頓着だった。
駅に早く着きすぎた私は、ホームの黄色い点線に立って、柵の向こうにきらめく海を眺めていた。じっとしているだけで汗が吹き出してくるほど暑い。いくら手のひらで拭っても腕がびしょ濡れになってしまう。昨日の雨のせいか、向かいのホームは侵食してきた泥の跡が残ってまだら模様になっていた。ここにくる道中も、ところどころ地面がぬかるんでいて自転車のタイヤが滑りそうになった。この蒸し暑さもきっと蒸発して空に還ってゆく雨のせいだろう。
どんな顔をしてのんと会えばいいのか、私はそればかり考えていた。もちろん恥ずかしさもあるけれど、なにより一線を越えてしまった後悔が重くのしかかっていた。
のんとの友情は、私にとってかけがえのない宝物だ。セミの抜け殻やビー玉や魔法のコンパクト、いろんなものがガラクタになってしまっても、世界が今よりもっと単純で美しかったあのころのように、きらきらと光り輝いている。そっと取り出しては太陽に透かし、いつまでも眺めていたくなる大切な宝石。
なのに傷つけてしまった。壊してしまった。もう二度と元の形には戻らない。砕けて血に飲まれてゆくガラスの浮き球を前に、私は立ちすくんでいた。
ぱん、とお尻を叩かれて顔を上げる。隣に立ったのんが、垂れ目を細める。赤いタータンチェックのスカートから覗く両膝は、白いニーソックスに覆われていた。
「今日も暑いね」
「うん」
「おしくらまんじゅうでもしようか」
「やだよ、暑苦しい」
足元を見つめながら軽くあしらう。鼻先から落ちた汗が、コンクリートの影に滲む。
「なんか表情死んでるけど、風邪?」
「ううん。たぶん熱中症かも。暑いし」
いつものように振る舞おうとしても、どこかギクシャクしてしまう。涼しい顔をしているのんが少し恨めしい。
「あのさ、れお」
「なに?」
「ねぇ、チューしよ。って言ってみて」
「いや直接的すぎるでしょ。それを言うなら、熱中症ってゆっくり言ってみて、だよ。なんのカモフラージュにもなってないし」
「いいじゃん、言ってみてよ。いまなら誰も見てないから」
たしかに電車はまだ来ておらず、ホームで待つ人々もみな日陰のベンチに座ってうなだれている。だからといってこんなところでキスできるはずもない。
マスクを顎までずらし、むーっと唇を突き出すのんに、戸惑いつつも苦笑する。
リクエストに応える代わりに私は、のんのケツをひっぱたいた。相変わらずいい音がする。やっぱりスカートの上から叩くこの感触が、いちばんしっくりくる。のんは驚いて、怒ったように下唇を突き出したが、目尻は嬉しそうに垂れ下がっていた。
「もうすぐ夏休みだね」
「あっというまだね」
「準備できてる?」
「まあ、うん」
道の駅で働くことには同意済みだ。父にも話したが反対はされなかった。夏休みは寮でのんと同棲する。荷造りのことを言っているなら、準備はまだできていない。気持ちのことを言っているのだとしたら、もっとだ。
「熱中症ってゆっくり言ってみて」
「にっ、しゃーあ、びょーお」
額の汗を拭いながら、私はゆっくりと唱えた。まもなく電車が参りますと、くぐもった声がホームに響く。黄色い線の内側までお下がりください。私は一歩身を引いて、のんの制服の裾をつまんだ。うだるような熱さの中で、のんの笑い声だけが涼し気だった。
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