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5月が終わる。

今日で5月が終わる。

この一か月間、石巻という町で過ごしてきて、この地域ならではの話題の中で、最も伝えたい事について今日は書こうと思う。

最初に

先日、女川町と南三陸町、気仙沼市などに行ってきた。
業務担当でもあるこの地域の現状をこの目で見る為に行った。
ご存知の通り、これらの地域は東日本大震災で

甚大な被害を受けた地域。


率直に感じた事を綴っていく。

まずは女川町

女川駅前は真新しい建物がずらりと並んでいた。家はほとんど高台にあり、駅前には役所等が並ぶ。そして港に向けて『シーパルピア女川』という現代的商店街(お洒落な感じ)がある。そこを抜けると、震災遺構として『旧女川交番』がある。

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震災当時からそのままの姿。

地盤沈下の為、満潮時には数十センチほど水に浸かる。

次に向かったところ。

そこは
旧大川小学校

ここの周囲には何にもない。北上川が流れ、道があるだけ。
無惨な姿になった校舎が、ポツリと経っている。
ここでは多くの児童、教職員や保護者、避難してきた住民が亡くなった。インターネットで検索すると生々しい記録が残されている。
避難の対応の仕方などで、市、県と遺族の間で、去年まで裁判が続けられていた。

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ここには公園ができるそうだが、
工事に携わってる人は日々、

何を思いながら

働いているのだろう。

南三陸町へ。

いまだ

盛り土の工事中だ。
9年経った今も、かつての姿はない。
残っているのは高野会館と、骨組みだけが残る南三陸町防災庁舎のみ。

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近くにある南三陸さんさん商店街というところに足を運んだ。

南三陸キラキラ丼がおいしい。

飲食店や生活雑貨店が立ち並ぶ。
小さな町を支える大きな存在のようだ。


そして気仙沼市

震災当時に

サンドウィッチマン

が逃げたとこで有名な安波山から市内を一望した。

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高台には古い民家が残り、低いとこには更地か新しい建物。
そして最近できた東北最大の島、大島にかかる橋、三陸自動車道の橋梁工事が見えた。


ひたすら写真と文で状況を説明してきた。
読者のみなさんは何を感じましたか?

答えなど存在はしない。人それぞれだと思う。

よかったら、
自分なりの答えを出してみて欲しい。


私の感想

リアルをこの目で見て、今までは
『9年も経ったんだから〜(ex.完全に復興してるだろう』

『9年経っても〜(ex.まだまだ復興中)』

という考え方になった。


そしてもう一つ。
それは
『自分』という存在の小ささだ。

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当たり前の生活が一瞬で失われた。誰のせいでもない。

その中には大切な存在も失った人さえいる。あの日から時間は経過してるものの、未だかつての日常は戻ってきていないし、心の傷を深いに違いない。

にもかかわらず、

素敵な笑顔でとても優しく接してくれる姿

下を向かずに前向きに生きる姿

故郷を見捨てずに留まり、かつての輝きを取り戻そうって一生懸命頑張る姿

町全体で未来に向かって頑張ろうっていう希望に満ち溢れた姿

がこれらの町にはあふれかえっている。

実際、いろんな人と接していく中で津波に飲まれたけど、鉄柱になんとかしがみついて生きたという人もいるし、自分の目の前を人が流れていく姿を見た人、自衛隊の人が遺体を運ぶという無残なシーンを見た人もいる。

辛い。


そんな人々に比べて、ちょっとの理不尽や、別に死ぬわけでもないのに少しの不都合が生じて文句ばっか言ったり、落ち込んでる自分の姿が小さく感じた。
自分自身に
『いい加減にせい!!』と言いつけたいと同時に
毎日寝る前に
『今日もよく頑張ったなぁ、おれ!』
なんて胸張って言えるように毎日必死で生きたいとも思った。

最後に

実はまだ
この石巻という街に配属されたことを受け入れられてない自分

がいる。

でも毎日の経験の中で気づいたことがある。

それは
私は東北、宮城、石巻という国にやってきた外国人である
ということ。
見方を変えると、

育った場所が違う私でしかわからないことがここには沢山あるという事だ。

田舎に配属されることなんて恥ずかしいことじゃない、

むしろ胸張ろうぜ。
ヒーローになろうぜ。
相方と二人で色んなアイデア出して、時にはほかの人を巻き込んで

この町を変えてやろうぜ。

そしてここでの経験を
地元・東京のみんなに還元しようぜ。
そしてそれが俺たちの一番の「Mission」なんじゃないの?
なんて思う。

その一つがまさしく今回の記事だと思う。

来月いよいよ車が手に入る。行動範囲が大幅に拡大する。この地でもっともっと色んな経験をして、『自分の精神のステイタス』を最大限に拡げていきたい。

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