山の横穴

 寺に通じる山道があった。
 少年だった頃のおぼろげな記憶だ。
 

 父方の実家があるのは、鄙びた田舎だった。
 見渡す限り、低山が並ぶ土地。斜面が幾重にも重なり、その合間合間に家が点在する。そんな集落だった。
 
 父の実家の裏にも山があった。
 その裏山に、寺に通じる細道があったのだ。
 
 人ひとり通るのがやっとの幅の、藪の中に続く道。踏み分けた跡で、ようやく道と分かるような、獣道に似た細道だった。
 それは離れの裏から始まり、裏山の山肌をぐるりと回り、向こうにある寺にまで通じていた。昔はこの道を通って寺に行ったのだという。
 しかし、私の子供時分には、もう滅多に使われてはいなかった。当時、住んでいた家が近かったため、父の実家を頻繁に訪れていたが、誰かが道を歩いているのを見たことがない。たまに、藪の整備のために祖父や祖母が入っていたようだが、私の記憶には残っていない。
 通る人のない、鬱蒼とした山の中に消えていく細道。それは怖くも魅力的に、私の目に映った。
 父方の実家にいた同じ年頃の従兄弟にも、やはり魅力的に映っていたのだろう。彼もまた、冒険好きな少年だった。
 「裏山の道には入るな」。そう言い聞かされていたものの、私たちは、しばしば内緒で細道に分け入った。
 とはいえ、その行為はバレていただろうと今は思う。ただ、特に重大な危険のある場所はないし、子供の足でも精々二、三分の距離しかない道だ。家と寺を行ったり来たりするくらいなら、と見逃されていたのだろう。
 実際、私と従兄弟は、家と寺を何度も往復するだけで満足していた。薄暗い藪の中を駆け抜け、別の場所へ行く。それだけで、小さな冒険のようで心が踊った。
 
 ただ、ひとつだけ。気になるものがあった。
 横穴だ。
 細道は一本道だが、一箇所だけ分岐する地点があった。分岐した道は斜面を少し登り、すぐに終わっていた。その先は、山肌に空いた横穴だった。
 その横穴は大きかった。子供の目だったから、そう見えたのかもしれない。しかし、少し屈めば大人が歩けるくらいの高さがあったし、横幅もそれなりにあった。
 そして、暗かった。入口から覗いてみても、数歩先から闇の中。塗り潰したような黒で、何も見えなかった。底なしの暗闇。見つめ続けると吸い込まれそうで、背筋が寒くなった。

「あの穴は入るなよ。ヤバイから」 
 従兄弟は、しばしば私に言った。
「あれは古墳の跡なんだ。昔、この辺に住んでたジジイが偶然掘り当てたらしい。中に大昔の人間の骨があったって。でも、その後、掘り当てたジジイは謎の病気で苦しんで死んだらしいぜ」
「あれは昔に人が住んでた跡だ。江戸時代に、村八分になってた家族が住んでた。親と子供。でも、ある時、村の奴らに殺された。そしたら村に疫病が流行って、大勢死んだ。祟りだってよ」
「あれは防空壕だ。戦争のときに作られたらしい。空襲があると皆逃げ込んだ。でも、ある時、避難した人の間で何かが起こった。何があったかはわからない。でも、その時に中にいた人間は大体死んだってよ」
 従兄弟のする横穴の由来は、毎回違っていた。本当のところは彼も知らなかったのだろう。
 しかし、誰それから聞いたという前置きで始まる話は、いつも妙な真実味を帯びて、私を怯えさせた。
 あの暗闇の中には決して入ってはならない。
 私も従兄弟も、それだけは心に刻んでいた。

 あれは五月だったろうか。確かゴールデンウィークの休み中だった気がする。異様な気候が続いていたせいか、記憶がはっきりしない。
 ひどく肌寒い日だった。もう春も過ぎて暦の上では夏になるのに、なんで冬みたいに寒いのかしら、などと親たちが話していた記憶が微かにある。私も従兄弟も厚手の長袖を着ていた。
 それでも外で駆け回ることはやめられない。その日も、いつものように例の山道に入っていた。
 山道は薄暗かった。木々や草が生え放題の藪は、日光が遮られ、年中うっすらと陰っている。その日は冬のような寒さだったが、それでも緑は柔らかく芽吹いていた。
 寒い、寒いと言い合いながら、私と従兄弟は細道を抜きつ抜かれつ競走した。寺へ向かい、折返し家へ。また寺へ。
 何度か繰り返し、また寺へ向かう途中だった。先を行く従兄弟が急に立ち止まった。
 どうしたの? と聞くと、シッと制止をかけ、道の先を指差す。
 繁った葉の隙間から、人影が見えた。誰かが先を歩いている。
 こちらに背を向けた人影は、若い女性のようだった。青い水玉のワンピース、白い帽子を被り、手に風呂敷包みを持っている。寺へ行くのだろうか。
「見つからないように静かに行こう」
 私達は気づかれないよう、距離を開けて女性の後を追った。
 女性は振り返ることなく道を進んでいく。 
 よく見ると、少し奇妙な気がした。
 雪でもちらつきそうな気温のなか、女性は薄着だった。着ているのは薄手のワンピースのみ。膨らみのある半袖とウエストが絞られたデザインの、青地に白い水玉のワンピース。夏には合うだろうが、今日の気候では震えがきそうなほど寒々しく見えた。しかし、女性は全く気にした様子がない。真夏用だろうツバのある白い帽子を被り、膝から下は足を出して、軽快な足捌きで歩いていく。
「寒くないのかな」
「うん」
 こそこそと会話しながらついていくと、女性が不意に藪の向こうに消えた。
 あれ、と思って目を凝らすと、道から外れた斜面に後ろ姿が見える。
「横穴へ行くつもりだ」
 従兄弟が囁いた。
 私はギョッとした。
 あんな場所へ何の用事なのか。
 私達は素早く距離をつめ、横穴の方へ向かった。
 横穴が見える場所まで辿り着くと、女性は丁度中へ入ろうとしているところだった。小脇に風呂敷包みを抱え、少し頭を下げるようにしながら、躊躇なく入っていく。
 急いで入り口まで行き、覗きこんだ。中は真っ暗だった。ワンピースの背中など見えもしない。
 ただ、足音だけは聞こえてきていた。闇の奥、一定のリズムで遠ざかっていく。
「どこ行くんだろう」
「さあ……」
 気にはなるが、闇の中に入るのは恐ろしい。私達は、入り口で立ちすくむことしか出来なかった。
 穴の奥では足音が続いている。しばらくすると、不意に足音が止み、話し声に変わった。穴から吹く風に乗って、切れ切れに聞こえてくる。
「どうも。――ぶり。――ませんでした?」
「ご無沙汰――。――の具合は――けど、――物がなくて――」
「――ねえ。今度は――から、ハイキュウ――」
「ええ。本当に。――で、――から困りますね――」
「そうなの。――いえば、――の――さんが――センニンバリ――」
「そうですか――さんといえば――」
「あら、やだ」 
 若い女性の声と、中年の女性の声が会話している。内容はよく分からなかったが、その様子は、ひどく親しげで明るかった。
「この穴、別の所へ通じてるんだな」
 従兄弟が意外そうに言った。
 私も驚いていた。てっきり穴の奥は行き止まりだと思い込んでいたのだ。
 世間話の声は、時折朗らかな笑いを交えながら続いている。そこには、今まで横穴に対して抱いていた恐ろしい雰囲気は一切感じられない。ただ、日常の楽しいひとコマが繰り広げられているだけだ。
「……行ってみるか?」
 従兄弟の提案に、私は、えっと声をあげた。
「だって、別に怖くなさそうじゃん。普通に別の場所に行けるみたいだし。っていうか、それを大人たちが隠してたってことは、何かいい場所なんじゃないの? 子供には隠しておきたい楽しい場所とか」
「そうかなあ」
「だって、あんな楽しそうに話してるぜ? さっきの人、風呂敷包み持ってたし、皆で集まって何か美味しいものでも食べるのかも。な、ちょっとだけ、様子見に行こう」
「でも……」
 私は穴の中を覗きこんだ。
 相変わらず一筋の光も拒むような暗闇の中は、何も見えない。入ったらそれきりになりそうな気がして、足が動かなかった。
「ちょっとだけ。駄目ならすぐ戻ればいいじゃん」
「うん……」
 ぎこちなくうなずいた時だった。
 穴から一際大きな笑い声が響いてきた。
「うふふふふ」 
「あはははは」
 とても楽しそうな高い声。
 それを聞いた瞬間、何故か両腕にびっしりと鳥肌が立った。
「だめだ、やめよう」
 私は言った。
 理由のない寒気が全身を這い回る。
「帰ろう」
「えー」
「帰ろうよ。だめだよ。入ったら見つかるよ。怒られるよ。お母さんたちにチクられて怒られる。絶対にそうなる。あ。ていうか、もう帰らないと。ヤバいよ。けっこう時間たっちゃってるし。そろそろお母さんたちが探しにくる頃だよ。庭に戻らないと。ほら。もう時間が……」
 言いながら空を振り仰ぎ、私はぽかんとした。同じく見上げた従兄弟が、隣で、わっと驚きの声をあげる。
「え、なんで? ヤバい! もう日が沈みそうじゃん!」
 昼食直後から山道に入り、精々2時間。そう思っていたのに、木々の間から透けて見える太陽は、既に山の端にかかっていた。空がうっすらと夕暮れに染まり始めている。
「やっば。帰ろう!」
 従兄弟の声とともに、私たちは脱兎のごとく駆け出した。
 必死の思いで家に着くと、丁度母が庭に出てきたところだった。肩を激しく上下させ、息を切らした私たちを、母は何してたの、あんたたちは、と呆れたように眺め、「ご飯よ」と言った。
 いつの間にか夕食の時間になっていた。
 
 それからも私たちは山道で遊んだ。
 しかし、あの横穴に入ることはなかった。
 あの日、横穴の先に興味をもったと思った従兄弟は、何故か日が変わると急に興味を失ったようだった。
 以来、横穴の近くを通り過ぎても、「あれは変だったな」と言うだけで、特にそれ以上の反応を示さない。あれほど私を怖がらせていた「横穴の由来」についても、さっぱり口にしなくなった。
 そんな従兄弟に、私は戸惑いつつも安心していた。またあの暗闇に入ろうなどと言われたら困る。理由は説明出来ないが、とにかく入ったらまずいという確信があった。そのため、従兄弟の変化に合わせ、私も横穴について口にするのは止めた。
 そうして私たちは穴に入ることなく山道で遊び続けた。やがて成長し、山道に入ることもなくなった。

 つい先日。お盆に合わせ、親族が父方の実家に集まった。
 今はまだ現役の伯父がいるが、いずれは家を継ぐだろう従兄弟も、妻子を伴い宴席についていた。
「お前も早く結婚しろよ」
「まだいいよ」
「そっか。仕事と結婚する生き方か。それもアリだな。応援するよ」
「いや、そうは言ってない」
 だらだらと、くだらない会話を続けながら酒を酌み交わす。
 だいぶ酒が回ってきた頃、宴席で昔話に花が咲いた。
 その流れで、ふと思い出した。
「そういや、昔、裏山でよく遊んだよな」
「あー、あの道な。遊んだ、遊んだ。寺と家を行ったり来たり。何が楽しかったんだかなあ」
 はは、とグラスを傾けながら従兄弟は笑う。
「あの道に横穴があったよな」
「あ? 横穴?」
「ほら、道から少し上がった斜面に、トンネルみたいな穴がさ」
「んー? あったかあ? そんなもん」
 従兄弟は首を傾げる。全く心当たりがないという顔だ。
「いや、あの暗くて先の見えない穴だよ。よく妙な話をしてくれたろ。墓だとか防空壕だとか」
「いやー? してないよ。なんだそりゃ」
 幼かった私を、あれほど怖がらせたというのに記憶にないらしい。少々カチンときて食い下がる。
「いや、散々話してくれたろ。あの穴はどうとか」
「そんな穴、なかったぞ」
「あった。いや、ある」
「いいや、ないよ」
「あるある。なんなら明日見に行こう」
「はあ? いいよ、面倒くさい」
「いや、絶対行く。行くからな」
「あーはいはい」
 いい加減に手を振って、従兄弟は話を打ち切った。

 翌日。面倒臭がる従兄弟を連れ、山道に入った。
 随分と久し振りの山道は、草木が鬱蒼とし、ますます道幅が細くなっていた。
 藪を掻き分けるように進む。少しして前方に横穴が見えてきた。
「ほら、あるだろ」
「あー、本当だ。おかしいな。全然記憶にないぞ?」
 不思議そうに従兄弟は首を捻る。
 横穴は、昔と同じように黒い口を開けている。光も飲み込む漆黒の闇、消えていったワンピースの背中を思い出し、少し緊張する。
 斜面を登り、入り口に辿り着いた。
「あれ」
 思わず声が出た。
「なんだよ」
 隣で従兄弟が笑う。
「お前、こんな、あっさい穴が怖かったのかあ?」
 ニヤニヤと、従兄弟は持参した懐中電灯をこれみよがしに軽く振った。
 懐中電灯など使うまでもない。穴の底はすぐそこに見えていた。入口から数歩先、土の壁が日光に晒されている。
 唖然とした。
 あの底知れない深い暗闇はどこにいったのだろう。一筋の光も差さない闇。
 記憶のなか、何度も見ては震えた光景を思い返す。今でもはっきりと目に浮かぶ。吸い込まれそうな、あの黒。足を踏み入れたら、二度と戻れない気のする暗闇。
 そして、その中に消えていった青いワンピースの女性。一体、彼女はどこへ……。
「帰ろうぜ」 
 従兄弟がつまらなそうに伸びをした。
「あ、ああ、うん」
 踵を返した従兄弟について、来た道を戻り出す。
 行きかけ、ちらりと背後を振り返った。
 穴は、やはり土壁を白く晒していた。

 あれがなんだったのか。今でも分からない。
 幻や思い違い。そんなものではない。そう思う。
 しかし、実際に底知れない闇をもつ穴は存在しなかった。それは事実だ。
 ただ、たまに思い出す。あの青いワンピースの人。不思議な涼しさを纏った後ろ姿。そして、高い笑い声。思い出すたびに耳の奥で鮮やかに鳴る声。
 それを聞くと、今でも、ぞわりと鳥肌が立つ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?