空き地
Yさんは、都内でラーメン屋を営んでいる中年の男性だ。
彼の店舗兼住居は、大きなターミナル駅に近い繁華街にある。
駅の西口を出て、賑やかな表通りを真っ直ぐ進み、脇道に入って、何度か曲がったところ。そこに彼の店はある。彼の父の代からそこで営業している、周辺では古株の店だという。
そんなYさんには、不思議に思っていることがある。
Yさんは生まれも育ちも今の家。ずっと同じ場所で暮らしてきた。
自然、長年にわたり、街の移り変わりを眺めることになる。
巨大ターミナル駅の周辺ともなれば、栄枯盛衰が激しい。
表通りに面する建物は、言わずもがな。テナントが入っては撤退するのは日常茶飯事。気がつくと、ビルそのものが新しく建て変わっていたりする。
新陳代謝が激しく、その分、常に時代の最先端を取り入れ、新鮮な空気が流れている。いつでも新しい息吹に満ちた輝かしい場所。それが表通りだ。
Yさんの店がある裏通りも、表通りほどではないにしろ、変化と無縁ではいられない。
小さな飲み屋や料理店。美容院。ヨガ教室。
近所を見渡すだけでも、多くの店が開店し、また閉店していった。空いた場所にはすぐさま別の店が入る。そのため、元が何だったか思い出せないことも多い。
十年前どころか数年前すら別の街。ここは活発に「生きている」街なのだと、Yさんは思っている。
そんなYさんの家の近くに、小さな空き地がある。
Yさんが不思議に思っているのは、この空き地だ。
空き地は、三方をビルに囲まれている。日差しが遮られるため、常に薄暗く、敷地面積は狭い。しかし、狭いながらも小さなビル一棟なら建つだろう面積があった。立地もさほど悪くはない。
だが、いつまで経っても手つかずのまま。空き地は赤土がむき出しの状態で放置されている。Yさんが物心ついた頃からこの状態だそうだから、もう何十年も更地のままなのだろう。
コンクリートばかりのこの近辺で、土を目にするのは珍しい。大抵の土地は、すぐに何かしらの利用法が定められ、人工物で隠されてしまう。そのためか、赤土の空き地は不思議なほどに目を引いた。
もうひとつ、目を引く要因があった。
空き地には、何故か椅子が一脚置いてあった。赤い背もたれ、赤い座面の、ビニールレザーの事務椅子。足にはキャスターがついている。かなり古いものらしく、少し退色しているが、痛みや汚れは見当たらない。
そんな事務椅子が、空き地の真ん中にぽつんと置かれていた。
この椅子もYさんが物心ついた頃から、ずっと同じ場所に同じように置いてあるという。
薄暗いビルの谷間。むき出しの赤土。その真ん中に、晴れの日も雨の日も変らずに置かれている赤い椅子。
子供の頃は、この空き地をなんとなく不気味に感じていたという。
先日のこと。
Yさんは、夜の散歩に出かけた。店を閉めたあと、近所をぐるりと回って家に戻る。それが日課だ。
途中、必ず空き地の前を通る。
普段は気にせずに通り過ぎるが、その日はなんとなく立ち止まった。
深呼吸して夜の空気を吸い込み、ふと空き地を見た。
周囲のビルはあらかた消灯し、通りは静まり返っている。そのなかで、深夜まで営業する数件の店の光と、街灯の光を受け、空き地は薄い闇に沈んでいた。
――改めて見ても、あまり気持ちのいい場所じゃないな。
薄闇のなかに、赤いビニールレザーの椅子がぼんやりと浮かんでいる。
なんでずっとこのままにしておくんだろう。
使い道はあるだろうに、とYさんは思った。つい最近も、近くに店がオープンした。この辺りに店なり事務所なり構えたい人間は多い。この空き地も売りに出せば買い手はつくはずなのだ。
あのボロ椅子も、いい加減、捨てればいいのに。
空き地の管理者は誰だろうかと、Yさんは知っている顔をいくつか思い浮かべた。が、どれもピンとこない。今度、しっかり調べてみるのもいいかもしれない。管理者を明らかにし、この空き地を有効活用できれば、裏通りももっと賑わうだろう。
そうだ、そうしよう、とYさんが考えた時だった。
リリリリリン。
リリリリリン。
高い音が周囲に響き渡った。電話の呼び出し音のようだ。
え? とYさんは辺りを見回した。道には誰もいない。近くの店からでもなさそうだ。
リリリリリン。
ビルの谷間に反響し、少しひび割れた音。
はっと空き地を見る。
薄暗い闇のなか、ぼんやりと光る赤い椅子。その上に、昔ながらの黒電話が乗っていた。鳴っているのは、それのようだ。
あんなもの、さっきはなかったぞ――?
狼狽えるYさんの前で、黒電話は鳴り続ける。
どうしたらよいのか分からず、咄嗟に空き地に一歩踏み出した。と同時に、ガチャと受話器をあげる音がし、呼び出し音がやんだ。
「はい」
すぐ耳元で声がした。男の太い声だ。Yさんは総毛立った。
背後に誰かいる。
「ずっと、ここにいますよ」
耳元で再び声がし、チン、と音がすると、電話が切れた。同時に背後の気配も消える。
慌てて振り返り、左右を確認する。誰もいない。
恐る恐る空き地に目を戻し、Yさんはぎょっとした。
赤い椅子の上に電話はなかった。代わりに、黒いスーツの腰から下だけが、椅子に座っていた。二本の足は透けて背後が見えている。
Yさんは小さく息を呑んだ。椅子を見つめたまま、そろそろと後ずさる。そして顔を背けると、振り返らずに一散に家路に着いた。
その日以来、空き地で何か見たことはない。
しかし、Yさんは空き地の管理者探しを止めた。
「きっとあの空き地は手を付けたらいけないんですよ」
あの時、そう強く感じたのだと言う。
「周りにビルが建とうが、道が走ろうが、街がどれだけ開発されて新しくなろうが構わない。でも、あの空き地だけはあのままにしておかないといけない。変えては駄目なんです」
生きている街のなかで、そこだけ時を止めた場所。
「死んだ隙間っていうのかな。そういうものが、都会にもあるんですね」
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