立っているだけ
ただ立っているだけ、とUさんは言う。
最近、Uさんは頻繁に同じ夢を見るという。
「立ってる夢なんだよね」
どこか知らない場所で立っている。ただそれだけの、特に何も起こらない夢だという。
夢のなかでUさんは立っている。
そこは薄暗い小部屋だ。妙にリアル感のある夢で、壁についた染みの形まで、はっきりと見て取ることができる。
部屋には仄暗い光が満ちている。天井付近に格子の嵌まった小さな窓がひとつだけあり、そこから細く太陽光が入っている。光源はそれだけで、部屋は日没直後のように薄暗い。
天井、壁、床は灰色のコンクリート。模様はない。家具やその他も、何もない。がらんどうの箱のような部屋。
正面の壁にドアがある。ドアは閉まっている。鉄製の重そうなドアだ。外側から鍵が掛けられている。近づいたことはないが、なんとなく察している。あのドアは開かない。
Uさんは部屋の中央に立っている。
薄暗い部屋は静かだ。Uさんしかいないのだから当然だ。しかし、部屋の外も静かだ。人気が感じられない。ドアは開かないのに、閉めたはずの人間の存在が欠落している。誰もいない。
Uさんは立っている。頭のどこかで、これは夢だと分かっている。すぐに朝が来て目覚めるだろう。
なのに、何故か不安が込み上げる。いつまでこうして立っていればいいのだろう。
いつまでも何もない。目が覚めるまでだ。そして、目が覚めるのはすぐだ。いつだって朝が来るのは一瞬だ。
しかし、不安になる。
Uさんは、ただ立っている。
どこからか水音がしてくる。チョロチョロと細く水を流すような音だ。水音は微かに、しかし途切れることなく続く。チョロチョロと耳から脳へ滑り込む音。他に音がないからか、自然と水音に神経が集中する。
昔、読んだ話を思い出す。拘束し、目隠しをした囚人の腕に軽く傷をつける。傷は浅い。すぐに治癒するレベルだ。しかし、そこに水を垂らし続ける。ポタポタと、いつまでも流れ落ちる水音。それを聞き続けた囚人は死亡する。流れ落ちる水音を、自分の体から流れ出した血液の音と思い込んだからだ。出血が致死量に達したと錯覚し、囚人は死に至った。
本当だろうか。
また、こんな話も聞いた。古代中国で行われていた水滴による拷問。全身を拘束した囚人の頭に水滴を垂らし続ける。ひたすら垂らし続ける。たかが水滴。何が起こるものか、と思うかもしれない。だが、水滴を垂らし続けられた囚人は、数日で発狂する。一滴一滴の水滴が、人を精神崩壊に追い込むのだ。
水音は続いている。微かに。絶えず。
不吉な予感がこみ上げる。
いや、これは夢だ。それも、ただ立っているだけの夢だ。何も起こらない。すぐに目が覚める。ただ立っていればいいだけだ。
薄暗い部屋。水音は続く。
何も起こらない。起こるはずはない。
多分。
きっと。
「そして目が覚めるんだよね」
Uさんは困ったように苦笑する。
「もう気分は最悪だよ。でも夢だからね。別にどうってことないんだよ」
うん、とうなずく。
どうってことないんだ、と口の中で小さく繰り返す。まるで言い聞かせるように。
「夢だから。しかも立っているだけの。何も起きない。怖がることなんて何もないんだ。そう、起きれば終わり。それだけなんだ」
喋りながら、Uさんの眉が顰められる。眉間に寄る深い皺。その顔は、今も何かの苦痛に耐え続けているようだ。
何も起こってはいないのに。
Uさんは、きっと今夜も夢を見る。
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