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『食への祈り』のススメ。


祈りとは無縁だった。

けれど祈ることになった。



1年前。

ある日とつぜん
体調をくずし、食欲がなくなったわたしは、


1日に1回、
おおさじ1の玄米
おかゆにして
のどに流し込むような日々を
つづけていた。

根っからの食いしん坊としては、オオゴトです。


そして
20日がすぎるころ、
ようやく回復の兆しが見えはじめ、

ゆっくりと食生活を元に戻しても平気かなと感じ、
じぶんが元気になりつつあることに、ホッとしていた。


が、
食事をするにあたって
食べものを食べるということに対して

ガラリと価値観が変わってしまったじぶんがいた。



食事をまえにして
どうにも

もどかしく
なにかしっくりこない
落ち着かないような、

なにかが引っかかっている。
なにか物足りない。
なにか気が済まない
見落としているような
なにかパズルのピースが抜け落ちているような
なにか不完全な感じ。(なにかが多い)


おみそ汁、
煮物、
玄米ごはん、
それらをまえにして

ものを食べる”という行為にたいしての
違和感


そう湧いた思いの答えが
流れていってしまわないよう
その先にあるはずの答えを突きとめたくて
じっと
こころの中を探ってみた。



そして祈りに行きつく。


「祈りを捧げよう」
人生で初めて、そう思った。

(イヤこどものころ、おなかが痛くなると『神様仏様、いい子になりますから治してください!』とよく祈っていた。(これは願い?))


わたしはいままで
特別な宗教に属さず
積極的になにかを信仰してもこなかった。



なので、
祈りの言葉とは?
ましてや『食前の祈り』など
なんと唱えたらいいのだろう?という具合。
なんやねん、祈りって、である。


そこで調べてみた。



けれど
どれもこれもしっくりこない。
じぶんの祈りたいものではなかった。

(外国の祈りの歌みたいなのがあって有名っぽかったが、
そもそも外国語で意味も分からない)



わたしは、
諦めずにひねりだした。

なにをどう、祈りたいのか。

そしてひねりだすこと3日くらいだっただろうか。

きゅうにポン!としっくりくる
祈りの言葉ができたのだ。




わたしはこう、祈りたくて仕方がなかった。


食前の祈り。


生きとし生けるものと、生きていないものも含めたすべてのものたちで
この星は、この地球は完璧なまでに循環し、
そしてじぶんもその循環の仕組みのひとつであるということを
強く意識し、深く自覚し、
そしてまたその循環の偉大さ、豊かさに感謝します。

初めてこう祈ったときに、
なんでか涙があふれた。


心底
祈りたかった言葉が
でてきてくれた、と感じた。


それからは、

可能なときであれば
食前に祈るようになった。
祈りと食はセットである。


そして
テレビやスマホを観ながらの食事ができなくなってしまった。


もちろん
本や雑誌を読みながらも
できない。

(極力おしゃべりしながら食べるのも控えたいけど、人間関係的にすべての外食シーンを回避するのはむずかしい)




ご飯を
“あなたはわたし”  ”わたしはあなた”というふうに見ているので、
ながら食いをする気が起こらないのです。


そして、いまわたしにとって食事とは

買ってきて(あるいは家庭菜園などで作って)
準備して、調理して、
食して、つかったお皿を洗って、
そのお皿を乾かして棚にもどして、
それらで出たゴミを自治体の指定日に出す、というところまでが
“食”だと思えているのです。

『家に帰るまでが遠足です』と同じ感覚。


食後の祈り。


食後の祈りは“ごちそう様でした。”




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