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掌編小説「千夜の晩酌」

《不用品です。ご自由にどうぞ》
 暖簾を下ろした居酒屋の軒先に、そのような書き置きと木箱があった。
 立ち止まった男は、休日の買い出しの帰りだった。
 二つに仕切られた木箱の中には徳利と猪口が入っていた。猪口の数は徳利よりも多く、底に蛇の目が描かれた白磁器から、繊細な模様の刻まれた切子まで、色や形状も様々だ。
 男は深みのある緑色の猪口を選んでから、折角ならと同じ容姿の徳利を持ち帰ることにした。陶芸の類いはさっぱり分からないが、どこか親しみを感じる陶器の風合いが、死んだ妻に似合うような気がした。

 同い年の魚沼千代とはお見合い結婚だった。口下手で不器用な自分とは違って、よく喋り、よく笑う、飾らない性格に惹かれた。
 二人の暮らしの中でも特に、食卓を囲むことが好きだった。
 千夜とは味覚の好みが似ていた。互いに手料理を振る舞ったり、時には外食を楽しんだ。そして週末の晩酌が二人のご褒美だった。
 二人きりでも幸せで、こんな人生が永遠に続くことを願っていた。
 しかし永遠は存在しない。千夜は流行り病で帰らぬ人となった。あまりにも突然の出来事だった。
 心の整理をしながら三十代が過ぎ、気付けば四十代も後半に迫っていた。孤独を感じることはあったが、新たに妻を迎える気持ちには至れなかった。

 独り身になっても染み付いた習慣は変わらない。夕食時、男は晩酌の支度を始めた。
 徳利を満たした酒は昨日から開封している純米酒で、昔からよく飲んでいる銘柄だ。肴は鰹のたたき、絹さやの胡麻和え、厚焼き玉子だ。
「いただきます」
 男は手を合わせてから、ゆっくりと猪口を傾けた。ほのかな香りが鼻から抜けて、口の中でまろやかな旨みが膨らんだ。飲み干した後はすっきりとしていた。
 昨日よりも美味かった。しかし昨日の今日でそこまで味が変わるのだろうか。酒器を変えたことによる相乗効果か、はたまた思い込みか。
 男はしばらく考え込んでいたが、「晩酌に理屈は必要ない」という千夜の受け売りを思い出して苦笑した。相手がいないとどうにも小難しく考えてしまう。気を取り直して鰹を一切れつまんだ。
 酒が進めば食も進み、徳利はすっかり軽くなった。後から追加した酒盗や焼き鳥の缶詰も残っていない。
 ふぅ、と男は息を吐いた。もう終わりにしようと思いながらも片付けてしまうのが名残惜しく、しばらく心地よい余韻に浸っていたが、ふいに徳利のなだらかな曲線が女体のように見えた。
 かすむ目を擦っていると、猪口と愛しい顔が滲んで重なった。
「なぁ、千夜」
 つるりとした冷たい唇は黙っていた。

 その晩、男は夢を見た。見慣れた食卓には千夜がいた。男が持ち帰ったあの徳利と猪口を手に、血色のよい頬を膨らませていた。
「あなた、ずるいわ。こんなに美味しそうなお酒を独り占めするだなんて。わたしも一緒に飲みたいわ」
 テーブルは食器で埋め尽くされていた。ピーマンの焼き浸し、里芋の唐揚げ、ナポリタン、帆立のカルパッチョ、棒々鶏、青椒肉絲、ずんだ餅、レーズンバターサンド――どれもこれも互いの好物だった。
「ご馳走だなぁ」
 男はしみじみと言った。
「だって肴がないと物足りないでしょう? 張り切って作ったわ」
 千夜はころころと笑った。
 箸は二膳揃っているのに猪口は一つしかなく、代わる代わる酒を注いだ。
「あんまり飲みすぎないでね」
「わかってるよ」
「うんと長生きしてね。ちゃんと待ってるから」
「あぁ」
 醒めたら全てが消えてしまう幻だからこそ、男は最後の一滴まで楽しんだ。晩酌に理屈は必要ないのだから。

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