泣きすぎて泣きすぎて、泣きすぎた後に。
ものすごく苦しくて、
不安なことを考えたり言葉にしたりすると
生理現象のように涙が出続けてしまう時期がありました。
私が精神科に通い始めた頃の話です。
当時(今でも完璧とは言えない)自分の不注意や
先延ばし癖が本当にひどくて、
学校でもアルバイト先でも、ミスが多発して、
それとなく自分の中で自責感が募っていた時期でした。提出物が出せない。忘れ物が多い。待ち合わせの時間に間に合わない。自分の意識で補うリカバーが、自分から無意識下で起きるミスや、
それによって損失する信頼をカバーしきれない日々が続いていました。
もう今はその時のアルバイトも辞めてしまったんですが、そのバイト先はパートの主婦層が殆どで学生は片手で数える程度しかいませんでした。
学生気分でわいわい働く風土はあまりなく、
どちらかといえば企業や会社的な雰囲気だったと思います。
そこで多発する私の
幼稚なミス。遅刻。忘れ物。連絡忘れ…
改善される速度の遅い私は、主婦たちに自分の息子娘の話をされながら、次第に仕事仲間の一員にはなれない宙ぶらりんな存在となっていきました。
一人ぼっちとは言わないけれど、
でもやっぱり一人ぼっちでした。
ある時、こんなことがありました。
職場の主婦の4名が新たにできる新店舗に異動することとなり、異動する方々に向けて、店舗に残る主婦達が寄せ書きを作ろうと計画し始めました。
私もそれなりにお世話になった話や出来事があったので、それぞれにその時の話を書きました。
あの時はお世話になりました。
ありがとうございました。と。
そして、後日その異動した方々からメッセージ
入りの小袋が届けられました。
小さなお菓子と一緒に添えられた手紙には、
「○〇(当時働いてたお店)は覚えること多くて大変だろうけど、頑張ってー!」
「あまり仲良く話す余裕無かったけど、応援してます!」ざっくりとこんな内容が書かれていました。
分かりますかね?この別枠感。
同じ仲間になりきれてない感じ。
「苦しい」「つらい」といった思いを自覚し始めた瞬間でした。
結局、本当に辛くなって病院へ行きました。
憂鬱で死にそうだ。と。
この今の苦しさの原因には多分、
私自身の根本的な不注意も影響してる。と
訴えました。
すると別の日に発達障害専門の先生に診てもらうことが決まりました。初めて受診した先生は鬱を専門とする先生で、ものすごく丁寧に目と耳を傾けてくれる先生だったことが今でも覚えています。
さて二人目の先生ですが、最悪でした。
ほんとうに冷たい目線と声で、私の不注意を
「憂鬱によるものだ」とおっしゃるのです。
憂鬱から不注意や些細なミスが続いて悪循環になることがあると言っていましたが、私は必死に「不注意は気分が明るい時にも頻繁に起きまています…。大学の一人暮らしで何度も何度もそれを実感したんです…」と説明しました。
ADHDの心理検査のCAARSの結果もみてもらいましたが、「65点以上がADHDと言えますが、貴方は一応、66点ですね…」と言われました。
(じゃあ、この認めない雰囲気はなんなのだろう)と感じました。
「私は、ADHDでないとは言ってませんよ?ただ、小学校の通知表などをみるにADHDだと強く断定できるものは無いですね」と言われました。
私は、処方されて直ぐに効果の出るコンサータを処方してほしいと訴えたのですが、断られてしまいました。ADHD向けの別の薬であるストラテラという薬を少量で処方されましたが、その薬は効果が出るまでに約1ヶ月はかかる薬でした。明日にでも死んでしまいそうな気分が毎日続くんですが、と必死になって自分の苦しさを説明しましたが、「明日とか今日とかそんな簡単に全て解決なんてしない。その考え方はまず間違っている」と怒られてしまいました。
私はもう耐えきれずその場で泣きました。
診察を終え、受付で支払う時も、私は涙を流し続けていて放心状態でした。
受付の方から「患者様との合う合わないなどありますので、別の専門医に診てもらうことも可能ですよ?」と色々と案内されましたが愛想良く返事はできませんでした。
病院に行きたいと思っていることや、生きることが苦しくて仕方ないことを、唯一相談できた母にその日のことを話しました。話している間はずっと泣いていました。泣きすぎて泣きすぎて、もうこのまま電話が切れたら死ぬんだろうと思っていました。夜中3時までずっと泣いて、生きていく支えの無さに絶望しました。
結局後日、別の専門医に診てもらうことを決め、バイトもキッパリと辞めました。
今は3人目の発達障害専門の先生から、
ADHDだと診断され、コンサータを飲むことが出来ています。
ここから本題に入るのですが、あの時、
あれだけ絶望して泣き続けたのは何だったのだろうと考える時間がありました。
想像以上に厳しい診察でショックだったことは分かるのですがそれにしてもどうしてあれほどの死の淵に立たされていたのだろう?と考えてみました。
そして今まで自分が、生きてきた中で持っていた価値観や指標の一つに、
「能力が高くなければ生きる価値がない」
という価値基準を持っていたことに気がつきました。
能力が高くて、仕事が出来て、人から愛されて、責任ある地位に立って、どんな人とも良い人間関係を築ける人間でなければならない。
いわゆる「能力主義」的な価値観をベースに生きていることを自覚しました。
そのため、ADHDでもなく健常者でもない、
グレーゾーンだと診断された時に、
何らかの欠如傾向は見られるものの、
社会的に支援する程のものでは無い状態。
という診断が「助ける必要のない無能」という存在に突き落とす、恐ろしいレッテルのように感じたのです。
自分が社会と上手くやっていけないのは事実として認めつつ、尚それを社会的に支援する事は無い。という狭間の存在になったと感じた時、
自分自身の生きる価値を本当に見失ったわけです。
それ以来、「能力主義から脱却しなければならない」と強く考えるようになりました。
能力という1つの軸で人間の価値を推し量る目線しか持てない。また或いは能力のみによってその人の価値が定まってしまう社会になると、
本当の意味で弱者側に立たされた時の絶望感はおぞましいものだと考えました。
能力主義の悪い性質として、
「弱者が虐げられるのは、本人の能力の無さによる自業自得」という論理が成り立ってしまう性質があります。私の場合、社会との不適合や無意識のミスの原因は、全て私自身の能力の無さ。が全てであり、本人の努力不足,自業自得。となってしまう訳です。
その日以来、能力主義から脱却する必要性を強く感じ、色々な本や議論を目にするようになりました。今も尚勉強中です。
中でもマイケル・サンデルさんの「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本は本当に参考になりました。
今私が主な脚本を書いてる物語は、
「能力主義からの脱却」が大きなテーマとなっています。物語のコンセプト、流れ、結末を
話し、共感して制作を手伝ってくれる味方も出来ました。
私は泣きすぎて泣きすぎて、泣きすぎた後に、
偶然にもまた何かはじめることができています。
私の人生も、物語の本当の結末も、
ハッピーエンドだとは決まっていませんが、
一度本当にどん底に叩きつけられた時の視界は
記憶と記録に残して、生きていこうと思います。
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