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「天使」の向こう側

こないだ「天使は瞳を閉じて」について暑苦しく語ったばかりなのだけど。
昨日、電車の中でぼーっと窓の外を見ていて突如、今までものすごく根本的な勘違いをしてたことに気がついた。

芝居の冒頭、街を見つけた二人の天使の
「受け持ちの天使がいるだろう」
「それがいないのよ!」
という会話。
このいなくなった「受け持ちの天使」はマスターなんだということにまず気がついた。
この街はもともと、天使時代のマスターの受け持ち区域だったのだ。そのマスターが人間になったため、この街にはせっかく人間がいるのに、受け持ちの天使がいなくなった。
人間になったマスターはずっと、この街に天使がいないことを気に病んでいたのだろう。だから人間になっても変わらず、自分のお店でこの街の人たちを見守り続け、そしてしまいには街を守るため、壁を壊すのを阻止しようとして命を落とす。
その未来を予感していたからこそ、マスターは天使1に向かって、「何があってもこの街にいてくれるだろうか」と話しかけたんだ。

初演の「ごあいさつ」の中で、鴻上さんは映画「ベルリン・天使の詩」を観て、それが人間になった感動を歌い上げて終わっていることに腹が立ったと書いている。大事なのは天使から人間になったその後じゃないか、人間になった天使のそれからを描くことこそが大事じゃないのかと。そうして書かれたのがこの「天使は瞳を閉じて」という芝居だと。
ずっと、これは人間になった天使2=テンコちゃんのその後を描いたという意味だと思っていた。
でもそうじゃなかったんだ。これはテンコちゃんのことじゃなく、ずっと昔に人間になった元天使=マスターのことだったんだ。

ようやく分かった。この物語はマスターの物語だったんだ。
マスターが恋した「人間の女性」は、この物語には出てこない。きっとマスターが人間になった時に、マスターにはひとつのハッピーエンドがあったはずだ。「ベルリン・天使の詩」のダミエルが、人間になった時と同じように。
しかしそれから長い年月が流れ、その女性は今もうマスターのそばにはいない。別れたのか、死んだのか、もしかしたらマスターの恋はそもそも成就しなかった可能性さえある。
ひとりの女性に恋して天使をやめ、しかしその恋が終わったのち、元天使のマスターがどう生きてきたのか。
そして、人間という存在そのものに憧れて天使をやめ、しかし元天使であるが故に、人間の死に絶えた街にひとり生き残ってしまった天使2=テンコちゃんは、これからの人間としての人生をどう生きていくのだろうか。
これこそが鴻上さんが描きたかった「ハッピーエンドのその先」だったんだ。

いつか恋は終わり、天使から人間になった最初の感動も薄れる。そうなったとき、人間になった元天使はどうすればよいのか。
…「ごあいさつ」にここまではっきり書いてくれていたのに、何故いままで気づかなかったのか…
こんな基本的なことを勘違いしたまま、偉そうに天使を語ってる二週間前の自分に蹴りを入れたい。
あれかしら…みなさん最初に観た時にちゃんと気づいてたのかしら…
聞いてみたいような聞きたくないような。。。

時々、昔観た芝居が、ある日突然稲妻のように「あのシーンはああいう意味だったのか!」と閃くことがあるけれど。
さすがに初見から20年も経って気付くのは遅すぎだろう、私!

演劇の伏線って、映画やドラマほど分かりやすくないから、一度観ただけじゃ分からないものがたくさんある。だからこそ、観るたびに毎回新しい発見があるような、一生モノの芝居もある。
でも、ほとんどの客は一度きりしか観ないし、演じる側もそれでもいいと思って作っている。舞台を映像に残すことを嫌がる舞台人は多いし、実際舞台は生で観るのが一番だけど、舞台の映像が残る一番のメリットは、こうやって後から見直して新しい発見ができるところだよなあと思う。

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