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チェリまほ最終回キスシーン問題~同性同士のキスを隠す演出はどういう価値観を強化するのか~、そして今後へ繋がる希望

私はラブストーリーが好きだ。中でもBLが心の友である。男女恋愛ものも好きだが、セクシュアルマイノリティである私がより感情移入できるのはBLだからである。

そんな私が人生で最もハマったと言えるドラマが更新された。
それが2020年秋冬にテレビ東京で放送されたこちら

「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」
(テレビ東京公式YouTubeチャンネルにて第1話を期間限定フル配信中)

この通称「チェリまほ」は、累計100万部突破の大人気BLマンガを原作に、世界中で配信されるほどの大ヒットドラマとなった。タイBLドラマのヒットなどがある前から私が常々思っていたのは、日本制作の同性同士の最高のラブストーリーが見たいということ。その願いを叶えてくれたドラマの1つがチェリまほだった。

日本の同性愛描写の歴史や童貞の描き方などで感じていた放送前の不安は、第1話で早々に払拭してくれた。黒沢の恋心を揶揄する描き方ではなかったのはもちろんのこと、「30歳まで童貞だと魔法使いになる」というスティグマとしても機能する都市伝説をタイトルにもってきながらも男性の性的自己決定が尊重された描き方になっていた点にも感動した。

というのも、このドラマは制作サイドの熱意の方向性が良く、原作者、監督、脚本家、プロデューサーのインタビュー記事では、マイノリティを題材にすることの難しさや、差別に加担しない最善の選択を常に模索していた様子が語られていた。役者陣の好演や、制作サイドの丁寧さも反映され、

・同性を好きになる気持ちを揶揄しない描き方
・童貞をカリカチュアライズしすぎない描き方
・合意の重ね方
・他者を尊重する人物像
・セクハラ・パワハラ行為の描き方
・恋愛に興味がないというキャラクターの登場
・ルッキズムに苦悩する男性が描かれたこと

など素晴らしかった点をあげればきりがなく、やっと日本でも細かいところも配慮がなされてると思える同性同士の恋愛ドラマが作られたという意味でも感動の涙を流し、セクシュアルマイノリティである自分の未来に希望が持てなかった10代の頃にこんな素晴らしいドラマが放送されていたら、どんなにエンパワメントされていただろうかとすら思えるドラマだった。

放送回を重ねるごとにドハマりし、毎話のように涙し、一気見しては号泣していたチェリまほだが、最終回だけどうしても納得のいかない問題のある演出があり、記事を書くに至った。もちろん最終回にも好きな部分はあるし、役者陣の演技は素晴らしかった。落胆こそしているものの、チェリまほに対する感謝の気持ちは最終回を見た後でも変わらないし、私の中で傑作ドラマであることは揺るがないと初めに断っておきます。

▼▼ 以下、詳細なネタバレを含みます ▼▼

最終回キスシーン問題

記事を書くに至った問題に思う演出というのが、最終回のラストに描かれたキスシーンです。

ざっくり最終回のストーリーを説明すると「魔法の力を失うことを不安に思う主人公・安達は会社の同期で恋人の黒沢との別れを選択するも、魔法の力よりも大切なことに気がつき黒沢と一緒に歩む道を選び、童貞ではなくなり魔法の力を失う。最後、社内恋愛を続ける2人はエレベーターに乗り込みキスをする(扉を閉めながらのため視聴者からキスは見えない)」というもの。魔法の力を失う=童貞ではなくなるシーンは、事後を意味するいわゆる朝チュンであったため、結局2人の直接的なキスシーンは描かれずドラマは終了する。

この視聴者からは見えないキスシーンの演出が好きだという人も、満足している人もいることはもちろんわかっている。だが私は、やはり最後のキスシーンは残念だった。即見始めた2周目の最中も、悲しさというか虚しさというか。同性同士だと2020年になっても日本ではメイン2人のキスシーンすら描くことができないのかとショックを受けた。

なぜ残念に思うのかピンとこない人もいるだろうし、ただのエロシーン目的と思われてしまうかもしれないが、あの隠す演出は、今の日本で描く同性同士の恋愛ドラマにおいては正しく機能しないものだったと思う。“正しく機能しない”と思う理由は2つある。

キスを隠す演出が“正しく機能しない”と思う2つの理由

1つ目は、同性同士のキスシーンへの忌避の意味合いを強化することに機能してしまっている点。
もしも日本でも当たり前に同性愛ドラマが数多く制作されていて、キスシーンも当たり前に登場するような状況における、「あえて見せない」という変化球としての演出なら正しく機能していたかもしれない。だが、そんな状況にはない同性愛差別がいまだ根強い日本であのような演出をすると、「ただ単にそういう演出の終わり方のドラマなのね」とは受け取れず、事務所NGやスポンサーNGなどの大人の事情や“視聴者への配慮”という名の消極的差別への加担などの見せられない理由を勘ぐってしまい、結果的に社会によるホモフォビアも視聴者に受け取らせてしまうように機能してしまうということだ。
(日本では過去、よしながふみ原作「西洋骨董洋菓子店」や、実際に事務所OKでもスポンサーNGで同性愛要素が排除された経緯をプロデューサーが語った手塚治虫原作の映画「MW」もあるので。(「西洋骨董洋菓子店」や「MW」から同性愛要素を排除したそれは、もう別作品だぞ))

2つ目は、同性同士のキスシーンを描写できないことを、さらに強調する効果をもたらすという点。
本来キスシーンをあえて見せないという演出は、劇中で通常のキスシーンを描いた上でなら、あえて見せないキスは2人だけのものという特別感を盛り上げる装置として機能するものであって、劇中でキスシーンを描かず隠すキスシーンのみの場合、それはキスシーンが撮れない理由の存在を感じさせ、疑似や代替の手段を意味する。チェリまほではメイン2人のキスシーンを1度も描いていないため(罰ゲーム的なおでこキスはあるが)、同性同士であるという理由も重なり、同性同士のキスシーンは無理でした!ということを強調する効果をもたらし、1つ目の理由も相まって、更なる同性同士のキスシーンの忌避を強く視聴者に突きつけることになってしまっているように思う。

このドラマは童貞ではなくなるということの意味も1つの重点になるため性的な意味合いは避けられず、黒沢の妄想映像や、2回の寸止めで終わるキス未遂(2回目は相手を突き飛ばしてしまう)、「おあずけのご褒美」といったセリフ、繰り返し“初めて”というワードを劇中で強調していたにも関わらず、最後までキスをせずに終わってしまったため、その不自然さが際立っている。(原作では明確なキスシーンも描かれている)
結果として、日本で量産され続ける多様なヘテロ恋愛ドラマとの落差を見せつけられているようで、一視聴者としては虚しさだけが残ってしまうラストだった。

チェリまほ脚本家・吉田恵里香氏はこうツイートしている。

エレベーターから始まった2人のラストシーンがエレベーターでのキスなのは、とても面白いし最高の演出だと思う。私自身は本来キスをあえて見せないあのような粋な演出自体は好きな人間ではある。だがそれは正しく機能しているのであればの話であり、チェリまほでも最終回でファーストキスなどをしっかり描いていなければ成立しない演出だと思う。

1つの意見として、キスシーンを描けないなら劇中登場するもう1組のカップル含め性描写を一切省いてしまった方が差別的な価値観を強化しないという意味でスマートだった、というのもあると思う。だが、それではまた別の意味での差別的な価値観を強化してしまう。

基本的なことではあるが、とくに同性同士の恋愛を描く際は、“何を描くか”と同じくらい“描かないこと”や“隠す”ということがどのような意味を持ち、どのような価値観を強化するのかをよく練った上でドラマを制作してほしい。

今の日本での同性同士の恋愛ドラマ制作における大事なこと

今の日本での同性同士の恋愛ドラマ制作における大事なこと、それはまず真正面から、直接的な描写もしっかり描いていくことで、日本でも同性同士の恋愛ドラマが作れることを証明し続ける土台作りが必要なんじゃないだろうか。その土台が作られた後でなければ、今回のような変化球的演出は正しく機能しないと考えている。

現状では、「無理強いではない、そこに至るまでの物語をちゃんと紡いだ上で、逃げの演出ではないキスシーンなどを描くことこそがエンパワメントになるんだ」と強く言いたい。

チェリまほはこの「無理強いではない、そこに至るまでの物語をちゃんと紡いだ」ところまでが凄く完成度の高いドラマだっただけに、ハシゴを外されたようで残念な思いが後を引いている。11話までが素晴らしい出来だっただけに、期待しすぎていたのかもしれない。率直に言うと、最終回である12話は全体的に、11話までの繊細さや緻密さを欠いていたように思う。

チェリまほドラマプロデューサー・本間かなみ氏は11話・12話についてこう語っている。

Q.11話・最終話とドラマの佳境で制作的に意識したこと、大事にしたことは?
――「人を好きになること、誰かと生きていくことはどういうことか」を意識しながら、見てくれた人たちに自由に作品を受け取っていただけるような余白、シンプルさを大切にしました。
(引用元:TVnavi 2021年2月号)

最終回で同性同士のキスシーンなどの性描写を排除したのが制作サイドの判断なのだとしたら、大切にしなければならない「同性愛という被差別属性をどう扱うのか」という点を軽視していたのではないかと思えてならない。
昨今、同性愛を主題にしたフィクションの制作サイドが「同性愛/BL」という言葉を避け、「人と人の愛の物語」という表現を好むことへの批判がされている。批判理由のひとつに、一見フラットに感じる字面だが、同性愛という社会的地位の低さを鑑みず、その被差別性をどう扱うかという責任から逃れる意識を生む危険がある表現だと考えられるからだ。
差別や偏見のない態度というのは、その社会的立場の差異を気にせず無視することではなく、その差異に適切に対応することである。これは、人種差別における自称カラーブラインドが社会的立場の差異すらも無視することへの批判に通じるものだ。
「人と人の愛の物語」という意識は、異性愛と同性愛をまるで同等のものと扱おうとするが、そこには明確な社会的立場の差異があり、異性愛で通用する意識をそのままスライドさせたところで機能しないどころか、時に明確な差別を浮き彫りにする。チェリまほ制作サイドにも「人と人の愛の物語」という意識が垣間見えていたが、原因がどうであれ残念な結果になってしまった。

同性愛を表現するフィクションの制作サイドは、「人と人の愛の物語」という普遍性を求める前に、被差別属性を扱うことはどういうことなのかを学んでほしい。そして同時に消費者は、異性愛描写などマジョリティに都合の良い描写のみを選択し続ける表現者の社会的責任を問い続けなければいけないと思う。(欧米で白人・男性・健常者・異性愛者などといった偏りを批判し変革が起きつつあるように)

正直、今回のような同性愛描写の扱いに私はもう慣れてしまい、“またか”と思ってしまっている。だが、まだ10代以下などの若年層は違う。慣れていると思っていた私でさえ落胆とショックを受けたのだから、残念に感じた若年層の視聴者もいただろうと思う。冒頭で「10代の頃にこんな素晴らしいドラマが放送されていたら、どんなにエンパワメントされていただろうかとすら思えるドラマだった」と書いたが、今ではそう言いづらくなってしまった。マジョリティにとっては些細なことでも、このような出来事の積み重ねで絶望を深め、世界に希望を持てなくなることもあり得るのだ。表現に携わる者は、その社会的責任を常に自覚し考え続けてほしいと切に願う。

「チェリまほ」は今後へ繋がる希望

チェリまほ最終回の後にこんな記事を書いているとは夢にも思わなかった。なぜあの演出になったのか、監督の判断なのか、脚本家の判断なのか、事務所NGなのか、役者NGなのか、テレビ局NGなのか、どこかへの“配慮”なのか、感染症対策なのか、犯人捜しのようなことをしてしまう自分が嫌で仕方なく、自己嫌悪を繰り返している。
なぜ自分はヘテロに生まれなかったのだろう、ヘテロであれば絶えず量産される自分と同じセクシュアリティのキスシーンに幼少期から触れて過ごしキスシーン1つに思い詰める暇もなかったかもしれない(「キスシーンごときでなに熱くなってんの」と嘲笑するような人間になっていた可能性もあるため怖いが)、そんなことばかり考えてしまう自分が嫌いだ。
差別性を指摘したところで強者であるマジョリティから物言う害虫の如く簡単に踏み潰されてしまうこともわかっている。差別のない世界に住みたい、だがそんな世界に住む資格は別の面で強者である自分にもない、ならば差別を減らせるよう考え続けるしかないのだ。


落胆はしたが、このドラマの素晴らしさ、そのポジティブな世界への影響力は計り知れず、この約3ヶ月間、楽しませてもらった感謝は今も変わらない。

ドラマ内におけるアウティング問題など、視聴者から指摘する声が上がったり、それを受けて制作サイドからの価値観のアップデートを模索する話だったり、この流れは一マイノリティとして心強く感じるものだった。

脚本・吉田恵里香氏は過去、恋愛に興味のないキャラクターを提案した際のことをこう語る。

これまでもいろんな企画の場で、恋愛に興味のないキャラクターはどうかという提案はしてきたのですが、あんまり理解されないというか。「それ、やる必要ある?」「考えすぎじゃない?」と言われてしまうことが多かったんですね。
でもこの作品では、藤崎さんをアセクシュアル(他者に性的感情を感じないセクシュアリティのこと)やアロマンティック(他者に恋愛感情を感じないセクシュアリティのこと)にしたいと話したら、誰も否定しなかった。その段階からいい現場だなと思ったし、原作者の先生が快くオッケーをくださったおかげで、こうして実現できました。
(引用元:沼堕ち続出ドラマ“チェリまほ”の多様な世界はどうやって作られたのか【脚本家・吉田恵里香さん】

チェリまほ制作陣の柔軟さがうかがい知れる一方、裏を返せば繊細さを求められるマイノリティ描写を「考えすぎ」と一蹴する制作者も未だに多いということでもある。
チェリまほ制作陣の丁寧さを追求する真摯な姿勢は、私にとってストーリーやキャラクター造形の深みだけでなく、安心して視聴を続けられるということに繋がっていたし(そう感じていただけに同インタビュー記事内で語られたBL観は残念に思ったが)、このような視点を持ち表明してくれる制作陣の存在は日々差別に直面する人間にとって心強く、今後への明るい希望をもたらしてくれる。
「きのう何食べた?」「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」とヒットを続けるテレビ東京をはじめ、各テレビ局や様々な媒体でのドラマの今後に期待したい。

問題のキスシーンに関しては、スペシャルドラマや映画化への伏線だと思うことで何とか納得させているので、

スペシャルドラマ求む!!!


※おことわり※
この記事はセクシュアルマイノリティ当事者が書いていますが、個人の意見でありセクシュアルマイノリティを代表するものではありません。
(自分のセクシュアリティを定義することに違和感があるため総称を使用しています。)


TSUTAYAプレミアムでは全話&スピンオフ(キャスト副音声あり)を独占配信中

ドラマ公式サイト


(2020/12/30 記事の一部を修正・削除しました)
(2021/01/14 記事の一部を修正・追記しました)


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