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「出直し」と「生まれ変わり」私考

 前回の記事「人間の寿命について」にも関係のあることだが、「出直し」「生まれ変わり」について考えてみたい。率直に言って、人間は死んだらそれまでだ、出直しというが、本当に生まれ変わるのだろうかということを証明することは不可能であろう。まして、自分があの世を見てきたわけでもないので、何とも言えない部分はある。しかし、神が天下り、神の社として、教祖の口を通して語られてきたことは、真実であるのなら、それを信じて生きていくことも意義があるのではないだろうか。その前提で書き進めていくことにする。
 
 私は「出直し」に関して考える時、教祖が残した「誰々は誰々の生まれ変わりやで」とか「誰々の魂は…」といった言葉や口伝えなどを年表にまとめていくうちに、何か見えてくるのではないかと思い、まとめていた。主だったものを挙げていく。

いざなぎ 中山善兵衛 → 前川菊太郎
をふとのべ 前川の父 → 梶本亀蔵 →真之亮
くにさづち おやす → おつね →こかん →玉千代
くもよみ お秀さん → たまえ
つきよみ 秀司 → 正善
たいしょくてん 教組生家の近隣の娘→ まつえ → イタチ
かしこね 空海、法然 福井留次郎 → 飯降政治郎 → 飯降政甚

お初(土佐卯之助の娘)→ タツノ(お初の出直し一年後に生まれた娘)
おはる → 井出クニ
みきの前世のおじさん → 飯田岩治郎

これ以外に動物に生まれ変わってしまったというもの
おかの → 牛

 他にもたくさんあるのだろうが、私が読んだ本や資料から知ったものを挙げてみた。天理教ではいろいろな事例があるのだろうが、教祖は元々、仏教徒であり、「五重相伝」を受けられたほど、熱心に信仰していたこともあり、思想的な面で「輪廻転生」についても学んでいたとも思う。そこから地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の「六道」をもとに畜生道に落ちるとか、出直しの話につなげていったのではないかと個人的に思っている。
 
 以前の記事『人間の数に就て』でも書いたが、諸井政一が、教祖から直接聞いた話として『正文遺韻』には次のように書いてある。

『元は九億九萬九千九百九十九人の人數にて、中に牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、いきものが出世して、人間とのぼりてゐるものが澤山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、あゝうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ變り出變りして、だん/\こうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらはしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらふたものが、澤山にあるで』と仰せられ、一同感服して、御前を退りしといふ。

『正文遺韻』諸井政一 P262

 生まれ変わりで早いケースは上記に挙げた土佐卯之助の娘の場合や、教祖の娘おやすさん、おつねさんがそうである。幼く亡くなっても、すぐに生まれ変わってきている。20~30年後に生まれ変わっているケースもあるが、借りている体から魂が抜け、親神の懐に抱かれて、その人の徳分に応じて、この世に、また生まれてくるのだと思う。しかし、前世の行いがひどすぎて、畜生道に落ち、今世で動物として生まれ変わっているケースもあるのであれば、その間に徳を積まなければ人間としては戻れないものなのかとも思う。
 
 犬や猫を飼っていたことがあるが、いつも尻尾を振って疑う心もなく、まっすぐに飼い主の目を見て、甘えてきたりする。それは人間の心を癒してくれる存在として徳を積んでいる姿なのかとも思えてくる。私は犬を飼っていた頃、「お前の前生は誰だったんだ?どんな因縁でここへ来たんだ?」と問い詰めたことがある。答えはもちろん「ワン」だが、無条件に私を慕い、癒してくれる存在だったから、徳を積んでいる姿なのだとも思った。
 生まれ変わって人間になったら、どんな間柄になるのだろうとも考えたことがある。犬の方が寿命が短いので、自分が生きている間に何度も犬は生まれ変わっているのかもしれないが…。
 
 韓国の映画「神と共に」(罪と罰)、続編「神と共に」(因と縁)を見たが、見事なグラフィックで「輪廻転生」を描いている。またストーリーも人間は死んでから三途の川を渡って、閻魔大王の裁判を受けるという内容だが、人間の生死というものは、こんなイメージなのだろうかとも思った。

 死を恐れてばかりいては陽気に暮らすことはできない。死んでからのことを考えたところで、どうすることもできない。そうであるなら、今世で生きている間、人のために、社会のために、そして神が見て喜ぶように、充実した人生を送り、後悔することなく、この世を去ればいいだけのことである。
それが人の道のように思うが、いかがだろう…。

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