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人間の寿命について

定命115歳

 私は子供の頃から人間の寿命に関して「定命115歳」と教えられてきた。本当に人間は115歳まで生きられるのだろうかと思ってきたが、「令和」の今の時代になって、本当だったのだと思うようになった。では115歳が限界なのかといえば、そうでもないとも教えられてきた。心次第でもう少し長く生きられるとも教えられた。

 定年も過ぎ、年末が近くなると友人たちからは「親が永眠しました。新年のご挨拶を…」喪中葉書もよく届く。今年はあいつのところかとも思いながら、既に両親ともに亡くなった自分には、両親の亡くなる時のことが思い出されてしまう。そして、葉書を送ってくれた友人たちも同じような気持ちを感じていたのだろうとも思ってしまう。これも自然なことなのかとも思う。人間なら、必ず通らねばならない道なのかもしれない。

長生きは幸せなのだろうか

 今の時代、60代で亡くなれば、早いと言われる。「これから余生を楽しんで暮らしていくところなのに…」と言われる。しかし、「長生き」というのは、したいものなのか、115歳まで生きたいと考えるものだろうかとも思ってしまう。子供たちはとっくに遠くに巣立ってしまい、めったに会わない。核家族化した家庭では老夫婦だけで、細々と暮らし、どちらかが先に逝けば、話し相手もなくなり、足腰が弱ってしまえば、一人でテレビでも見ているしかない毎日になってしまう。そんな毎日が「長生き」できるようになったからと、何年も続くのであれば、果たして、「長生き」は幸せなのだろうかと考え込んでしまう。

 父は91歳まで生きた。しかし晩年は膝を悪くし、外に出歩くことが減って家にいることが多くなった。母は病弱で既に75歳で他界した。父は昼間は家に1人でいることも多く、やがて認知症になってしまった。徘徊して家に帰れず、警察や病院から連絡があることも増えていった。迎えに行き、連れて帰るが、こんなことが、いつまで続くのだろうとも、ふと、思ってしまう自分がいた。毎日、様子を見に行っていたが、寂しいからとテレビをつけっぱなしにしていて、ソファに座ったまま、居眠りしている姿を見ながら、もう限界だとデイサービスにも週3回通ってもらうようにもした。少し負担も軽減されたが、親の介護というものは大変である。最後は癌も二つ見つかったが、91まで生きたのだから、もう危険な手術もやらないでくれと医者に頼み、自宅療養に変えた。

長く生きることだけが幸せか

 そんな経験から自分は「長生き」などしたくないとも考えるようになった。子供の負担にはなりたくない。一番理想的なのは、ある日ポックリと逝ってしまうことだ。苦しみもせず、あの世へ旅立つことだ。しかし、世の中、そんなに甘くないばかりか、理想通りになるわけもない。この世には「死にたくても死ねない」という人も、どれだけ多くいるのかと思う。おたすけ先でも「もう死にたい」という言葉を何回、聞いたのだろう。何の不安もなく、穏やかに日々を暮らし、お迎えがきたら、皆に見送られて眠るように逝ければ最高なのかもしれない。

 自分の両親、癌などの病気で亡くなった知人、その他にもいろいろな事例を見てきたが、人間の「寿命」というのは定められたものなのだろうか?仮に115歳とするなら、自分は既に折り返し地点も過ぎている。体にあちこちガタもきている。モノを運んだり、力仕事をしたりすれば体力が極端に落ちていることも感じる。果たして、この先、何をしていけばいいのだろうとも思う。父の姿を見て来ただけに、ずっと家にいて、テレビばかり見ているような生活はしたいとは思わない。今は仕事もしているが、それがなくなった時にどうすればいいのだろうかとも考えてしまう。
 人は「やりたいことをやればいいんだよ。好きなことだけやっていればいいんだよ。」というが、それは60歳までに後悔なく、やってきたつもりだ。仕事の面では自分のやれることも、成果も足跡も残してきたつもりだ。趣味や遊びに関しても、やりたいことをやってきたから、後悔するようなことは全くない。

寿命を全うする

 人間の幸せとは何か、長生きするということは果たして幸せなのか、若くして亡くなるのは不幸なのか…。考え出したらキリがないようにも思える。やはり神から与えられた「寿命」があるのなら、長い・短いにかかわらず、それを全うすることが幸せなのかとも思う。今は医療が発達して、不治の病になっても過去のデータから平均的に、あとどのくらい生きられると、教えてもらえる。私はその時点で、字が書けるうちに手紙を書きたいと思っている。それがいつになるのか、近いうちなのかもわからない。そればかりは医者もわからないだろうが、心を落ち着けて皆に楽しい人生だったよと伝えて去りたい。そうなることを願いながら、余生を過ごせればと思う。
 しかし、今のところそういった兆候もなければ、定期的な血液検査の結果も特に異常はないから、ガタが来ている体にムチ打ちながらでも、何とか過ごせそうだ。

 面白い論文を見つけたので、少し紹介したいと思う。長寿に関する論文のようだが、少し引用させていただく。

超高齢社会がさらに進展することにより、死亡者の数は増え、出生数は減少する。 2018 年時点ですでに、死亡数 136 万 2,470 人に対し、出生数は 91 万 8,400 人である。今後、出生数は減少し続けるのに対し、死亡数は 2040 年をピークに増加し続ける見込みである。ピーク時点では、死亡数 167 万 9 千人に対して、出生数は 74 万 2 千人と推計されている。 日本はこれから、生まれてくる数に対し倍以上の人が死亡する時代に突入するのである。 日本の人口が今後減少していく一方で、世界の人口は開発途上地域(less developed regions)を中心に増加する見込みである。国際連合の推計では、2015 年の世界の総 人口 73 億 7,979 万人は、2060 年に 101 億 5,147 万人にまで増加する。

『医学研究にみられる 115 歳定命の問題』中西康裕『天理大学おやさと研究所年報』第26 号 P21

 これから、ますます日本は高齢化社会が進んでいくようだ。生まれてくる子供に対し、死亡していく高齢者が倍くらいいる2040年にピークということだが、あと20年といえば、自分がまだ生きている可能性もある時だと思うと、あまり考えたくもない未来だ。日本社会は高齢化し、人口も減る一方で、世界の開発途上にある国では人口が増加し、地球全体として人口は増えていくことになるようだ。そうなれば地球全体で食糧危機も起こるであろう。戦争や地域の紛争などしている場合なのだろうか。人間と神が知恵比べでもしているような気がしてならない。来るべき困難に対して、人間は団結して知恵を絞り、対応していかなければならないように思うが、明日、食べるものに困り、生活自体が苦しくなり、実感するまでは、何も変わらず、考えもしないものなのかとも思う。

神が期待する人間像

 論文のおわりに高野友治による論考を引用しているが、それも面白いので、引用しておく。

高野は、親神が期待される人間像として次の五つを挙げている。すなわち、
① 第一に 115 歳まで生きる人間、
② 病まず死なず弱りなき人間、
③ 夫婦の間に男の子一人・ 女の子一人、それ以上は心次第に授けて頂ける人間、
④ 60 歳ぐらいまでに子育てを終え、その後は配偶者や子に心を煩わされることなくたすけ一条に邁進し、陽気ぐらしを楽しめる人間、
⑤ 115 歳の寿命の間、世のため人様のため神様のために働き、その働きを無上の楽しみと感じて生きる人間、の五つである。
さらに高野は、「天理教の教え―特におふでさきを拝読するに、いろいろの教えがあるが、それらの教えの、表現される以前の考えとして、人間は 115 歳まで生きるものという神意があるように考えられる…諸教義は、人間は 115 歳まで生きるものという発想の上に立つ教義で…突っ込んでいうなら、かかる基盤なしに考えるなら本当の解釈ができないのではないか」と指摘している。 天理教教義における陽気ぐらしの実現には、115 歳まで生を全うすることが想定されていると考えられる。

『医学研究にみられる 115 歳定命の問題』中西康裕『天理大学おやさと研究所年報』第26 号

 これらの①~⑤を読むと、④と⑤が理想的な余生だと感じるが、果たして、それができるのであろうかと考えてしまう。親神が望むような人間像に近づけるのだろうか。近づけるように努力するだけの話なのか…。
115歳といえば、自分にとって約50年くらい先の話になるから、想像もつかないし、そこまで生きられるともハナから思ってもいないので、神が与えてくれた「寿命」の間、感謝しながら毎日を過ごす以外にないのかもしれない。
 
引用した文献を全文、読みたい方は下記のリンクへ

『医学研究にみられる 115 歳定命の問題』
中西康裕(奈良県立医科大学大学院 医学研究科 博士課程 公衆衛生学専攻)
『天理大学おやさと研究所年報』第26 号2020 年 3 月 26 日発行
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4634/OYS002602.pdf


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