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『天理時報』新年号を読んで

 『天理時報』の新年号が届いた。例年のごとく1頁目は真柱様の写真とご挨拶で新年号なのだと目を引く。その次の2.3頁は表統領のインタビューが写真入りであるが、ちょっと読んでみて、違和感を感じるところもあったので、書くことにする。「節を前向きに捉える」の部分からの引用だが…、

 振り返れば、前回の年祭以降、かんろだいの節、真柱様のご身上、コロナ禍など、教内外に大きな節を見せていただいています。しかし、シュンとしていても仕方ありません。これまでを振り返り、さまざまな反省のうえに立って、こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替えていけるかが、肝心です。
 そのためにも、親神様、教祖はいま、教会本部はもちろん、一人ひとり、あるいは一教会に対して何を求めておられるのかを、お互いにしっかり考えていきたい。地に足をつけて、具体的な歩みを、気持ちも新たに進めていきたいと思います。

 『天理時報』2023年1月4日号 2頁

 前回の年祭以降に天理教としては、これほどの「節」と思われる「かんろだいの節」「真柱様の身上」の上に、更に世上では「コロナ禍」、「ウクライナ侵攻」などが起こっているのに、シュンとしていても仕方がないとは、ちょっと違うのではないかと感じた。むしろ、それは中山家と縁戚関係にある方々だけで、誰もシュンとはしていないのではないだろうか。

『天理時報』立教186年新年号

 前回の年祭から何も変わらず、「これでも、まだ変わらないのか」とばかりに、神が「節」を見せ続けているようには思わないのだろうか。普通に考えれば、「真柱の身上」など、神からの最大の「お知らせ・手引き」だと考えるのが普通ではないかと思う。それが「シュンとしている」とは、こうなるのも仕方がないから受け入れているという態度に思えてならないのだが…。その後、三年千日の話に移っていくが、以前と何も変わらず、同じことを繰り返しているような印象しか受けない。更に気になるのは次の部分だ。

ただし、ようふぼくが個人として目標を立てるのは、難しい面もあるでしょう。そうしたことの起点になるのは各地の教会です。だから教会長がしっかりリードして、教会長を芯に一手一つになる。そうして全教の一手一つを目指すのです。これが、今回の年祭活動で最も重要な点だと思います。

『天理時報』2023年1月4日号 2頁

 読んだ瞬間に、これでは地方の教会長さんに「丸投げ」ではないかと思った。恐らく戸惑った教会長や、三年千日の間の目標を教会として決めなきゃいけないじゃないかと思った方もおられるように思う。しかし、また具体的な数字やお供えの額などを目標として挙げるのは、統一教会問題、新興宗教の献金問題なども取り立たされている昨今、言い出しにくいことだと思った部内教会長もいるのではないだろうか。
 信仰の軸をどこにもっていくのかが問題であり、私自身は個々人が三年千日、年祭など意識することもなく、本当に神が喜び、勇んでご守護してくれるよう日々を勇み心で通るようにすることが大事なのかとも思うのだが…。
 更に次の部分も少し引っかかった。「まずは身近な人を意識」の部分だが…、

 教会に足を運ぶというと、月次祭への参拝を思い浮かべる方もいるでしょうが、私は「日参」に重きを置くべきではないかと思います。日参している人にとって、月次祭は言わずもがなです。距離や時間の面で日参が叶わないのなら、その代わりに、どうやって運ばせもらうかを考えるのです。近くの教会に参拝してもいいし、あるいは手紙やお供えでつなぐなど、方法はいろいろあります。

『天理時報』2023年1月4日号 3頁

 教会に足を運ぶというか、信仰熱心な信者さんは朝夕、教会に通って、神床の掃除や神饌のお手伝いをしている方も多くいることと思う。日参している方には、信仰に堅く、本当に素晴らしい方もいらっしゃると思う。しかし、今の時代、引っ越しや仕事の関係で日参できない人も多くいることだろう。
 表統領は「近くの教会に参拝してもいいし、」と述べているが、以前の当
Noteの記事「天理教は他系統の人と付き合っちゃいけないのか?」でも書いた通り、縦系統の教会制度があるから、家の近くの教会に参拝しにくい面もあるのではないだろうか。それに近くにあるからと、他系統の教会でも参拝させてもらうとなれば、子供じゃないから、お賽銭お供えも準備することだろう。そうなれば自教会へは足が遠のき、お供えを更に送ることも負担になるだろう。
 いやらしい話になって恐縮だが、教会本部としては直属教会、部内教会を通じて、上納されてくるものだから関係ないのかもしれないが。今一度、縦系統の教会制度の問題にも目を向けるべきではないのかとも思うのだが。それができるのは本部員しかいないのであるから。
 表統領が『天理時報』ではっきりと「近くの教会に参拝してもいい」と述べたのだから、教会から遠方で、他系統への参拝を躊躇されている人にとっては、朗報かもしれない
 
“「成程の人」に近づく”という部分では、成程の人に近づくためには教えを深め、心を治めることが欠かせない。簡単ではないが、成程の人への歩みが「ひながたをたどる」ことにもつながるはずだと述べているが、「教えを深める」ことは教会本部にとってマイナスなことではないのかと思う。なぜなら、「教えを深めよう」と天理教のことを詳しく調べたり、天理教の歴史の研究を始めたりすれば、矛盾やおかしいと思うことが、どんどん出てくる。  
 そして、それを誰かに聞こうものなら、「難しいことは言うな」とか「素直じゃない」とか「たんのうが足りん」と言われるのがオチである。
 ちゃんと答えてくれる人がいないから、ネットで誰かに相談したり、いろいろ情報を探していくのであろう。実際に私のNoteの記事を見つけて、ご連絡下さる方も、最近、増えてきているように感じる。
 私は異端になりたいわけでもなく、異説を説きたいというわけでもない。自分が「教えを深めたい」「真実を知りたい」と研究を続けてきたから、そうなっただけのことだと思っている。単なる探求心旺盛の物好きだと自負している。
 ネット社会と言われる昨今、この動きは止められないであろう。それだけに「本物」が求められる時代に入ったのかとも思う。

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