漫才における人間味とは
2020年11月18日放送「バナナサンド」で、ナイツ塙さんが設楽さんと富澤さんに「漫才における人間味って時々言われるけど、それって何なんでしょう?僕、わかってるようでわかってないんです」と問いかけるシーンがありました。ナイツは昔、設楽さんに「あのネタ、人間味が出ててすごい良かったよ」と声をかけられたことがあったそうで、富澤さんもM1グランプリの審査員席でジャルジャルに対して「人間味が出てて良かった」と言ってました。富澤さんは「何て言ったらいいのかな」と言葉を選びつつも「自分の言葉で、コイツが言いたいから言ってるっていうのが見えるってこと」設楽さんは「この人たちじゃないと見せられないっていうもの。台本が面白いのは当たり前っていう前提では、台本よりもその人が見えてくる時があって、その時が面白いと思う」「練習量が多くて面白いっていうのは、まだその域に達してないと思う。それも大事なんだけどね」と答えていて。
それを見ながら思ったのは和牛のこと。
和牛がM1で優勝できなかったのは、新鮮さを求めるM1の枠に納まりきらなかったからだ、彼らにM1という舞台は小さすぎたのだと信じているのですが、もしかすると審査員は和牛の漫才の中に彼らの人間味が見えないと感じたのか?と思ってしまったのです。
少し脱線しますが、私は昔から趣味で音楽を続けていて、舞台に立ってお客さんに芸を見せるという意味では音楽も漫才も落語も、モノマネも腹話術も同じだと思っています。舞台に立つと、特にアマチュアでは、残酷なほどにどんな人物であるか明確になります。
きっちり練習を積んで自信を持って舞台に上がる時と、自信がなくてオドオドしながら舞台に上がる時、心情は悲しいくらい立ち姿に現れます。これっぽっちも自信を持てない心情でゲネプロに臨んだ時、トレーナーの先生に「ネガティブすぎ!」と呆れられましたw たぶん、とんでもなくネガティブな音だったんだろうなあ。
時間に限りがあるアマチュアは、学生みたいにバカみたいな練習は出来ないから、それまでの経験の中から生かせるものを必死に探して、それを一番綺麗な形に反映させて舞台に載せたい。音楽とは無縁なものでも、思わぬ形で音楽に生きる事があるから、無駄な経験なんて何もない。そう思って音楽にしがみついてます。
話を戻します。和牛のネタは、積み重ねたネタ合わせと緻密な台本から成りたっていて、水田さんの細かい嫌味な部分を漫才に反映させていて、そういう意味では水田さんの人間性ってすごく出ていると思います。
じゃ、川西さんは?
アメトーーク!「このツッコミがすごい!」の回で、濱家くんが川西さんのことを「川西独特の地を這う圧縮したビームのような声」「心地良いリズム」「ノータイムツッコミ」が凄い点、と紹介してました。それに対して大吉さんと塙さんも「役に入りきるよね、自分を出すよりもネタを大事にしてる」「粗品と真逆だよね」と補足していて。
ガリゲルでは銀シャリ橋本さんが「喜怒哀楽を出さない。本物の川西は何年も前に殺されていて、今の川西はクローンだという説がある」と言って笑いを誘っていました。
自分を出さないのが、川西さんの流儀なのかな。お客さんに楽しんでもらうことと、水田さんを引き立たせることが目的なのかな。
それがM1の舞台では、川西さんの人間力が見えないと思われてしまったのかもしれない。
俺らが一番やねん!って様相の漫才師が評価されてしまう賞レースだから。
でも、お客さんを楽しませたい、相方の面白さを伝えたいって、漫才師が目指すものとして何にも間違ってない。
年を重ねると、だんだん自分の得意不得意ってわかってきます。
コミュニケーションに自信がない人は接客業を選ばないし、注意力が低めの人はお金を扱う仕事を選ばない。無理に不得意を克服するよりも、得意分野で生きる事を選びます。
川西さんには、ご自身が目指すものをこれからも追及して欲しいです。もう和牛を縛る賞レースはないのです。10年先、20年先には、川西は水田を引き立たせる時が一番楽しそうやな、って言われてる、筈。たぶん。
和牛はM1の神様にそっぽを向かれたんじゃない。笑いの神様に見込まれたのです。おまえらもっともっとおもろい漫才見せてくれ、見せれるやろ。って、笑いの神様にめちゃめちゃ愛されてしまってる。
書きながら泣きそうだ。なんだこの沼は。ズブズブ沈む一方だわ。
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