ガチ恋

先生は「人間」を愛した。併し不正なもの不純なものに対しては毫も假借する所がなかつた。
私は曾て先生に向つて、(中略)「愛する者には欺かれていいといふ程の大きい気持になりたい」と云つた事があつた。その時先生は、「さういう愛は贔屓だ、私はどんな場合でも不正は罰しなくてはいられない」と云はれた。
たとへ自分の愛子であらうとも、不正を行つた点に就ては、最も憎んでいる人間と何の択ぶ所もない、自分の最も愛するものであるが故に不正を許すのは、畢竟イゴイズムである。

和辻哲郎「夏目先生の人及び芸術」


私は推しに最後の言葉をかける機会に「実はガチ恋をしていました」と白状した。しかし世間で言うガチ恋と自分の感情とでは違うところも多いように思う。他に言い表わす言葉が見つからなかったので便宜上「ガチ恋」という言葉を使ったに過ぎない。

近代の文学者の中で最も弟子というか門下生に慕われた人といえば、夏目漱石を挙げる人も多いかと思う。そんな夏目先生を追悼する哲学者・和辻哲郎の文を読んでハッとしたので冒頭に引用させてもらった。

自分の推しへの感情にも、ガチ恋だけでなく尊敬や畏敬の念があった。「推しになら欺かれてもいい」という気持ちと「推しとはいえ間違ったことをしたら正すのは辞すまい」という気持ちの間で揺れていたようにも思う。
しかし実際にこのような葛藤に直面することは一度たりともなかった。それほど彼女は「不正」を憎んでいた。そんな彼女を推していて、常に背筋が伸びるような思いだった。

といっても、別に彼女は聖人君子というわけではなかった。お金も自分も大好きだし、好き嫌いは激しかった。しかし、自分の不正も他人の不正も、断じて許しはしなかったし、同業者やリスナーに対する優しさ、特に若い人や経験の浅い人に対する親切心の大きさには驚かされた。

彼女は「人間」を愛するが故に、不正を憎んでいたのだと思う。


ところで、私は十数年のオタク生活の中で自分ルールを作っていた。それは「単推しとガチ恋はするな」というものである。傾向として盲目になりやすく、推しとも周りのオタクとも関係がこじれやすいというのが理由だった。

もちろん単推しガチ恋でも周りとうまくやれている方はいる。しかし自分にはそのようなバランス感覚を保つ自信がなかった。また、リスクが大きいという点でも、趣味での愛ぐらい分散させるのが賢いやり方だと勝手に思っていた。

推しに対してガチ恋をするまでにも、何度も自分の中で「これ以上深入りするとガチ恋になるからやめておけ」というセンサーが反応していた。
結果としてはそのセンサーに気づきながらも引き返せなかった。


恥ずかしいが初めから話そう。自分は人に対する興味が強い方なので、気になるVがいるとザッとアーカイブを漁るのが好きだった。収益化のために再生時間も必要と聞いたので、ここでまず「興味」を持った。

次に、推しが体調を崩し、実生活もうまくいっていない旨の報告を聞いた。普段なにがあっても平気そうにしている推しが、ただのちっぽけな自分に悩む若者としての気持ちを吐露してくれた。彼女の「核心」を垣間見た気がした。

そうした不安もありながら、この時期に配信の頻度が飛躍的に増えた。生活の一部として推しがいる幸せは無上のものだった。「頻度」は大事な要素なんだと思う。

この時点で相当やばいなと思っていた。ガチ恋センサーを止めるためにも、一旦ここはモブに徹しようと思った。

しかし、このときいわゆる「ガチイベ」が始まった。彼女にとっては夢であり、リスナーにとっては祭りである。結果よりも、彼女が「全力を尽くした」と思うことが大事だと思った。そのためには、自分なんかの感情がどうなろうとサポートする、盛り上げる方が大事だった。むしろ「俺はこの人を応援したい、この人を応援してくれる人のことも応援したい」と思うことで鬼タイテについていく原動力にした。
このときの自分の感情は「依存」だったと思う。俺はこの人に頼りにされている、この人には俺がいないとダメだ、という幻想。心から笑えた約半年間の恩返し。
もう彼女なしに自分のオタク生活はありえない程の依存度になってしまった。

そして、イベント終了後、特大の「絶望」がやってきた。詳細はもちろん誰にもわからないし、明らかにするべきとも思わない。ただ自分の視点から言えることは、彼女は自分の中の不正も、他人の不正も許すことができず、それは自分や仲間やリスナーを愛するが故だった。

私は、絶望に暮れ、今までの彼女の言動をなぞり、食事も喉を通らないほど考えに考え抜いた結果、より彼女を尊敬するようになった。

露悪的な言い方をしてしまうと、自分はこのとき「ガチ恋」として完成してしまったように思う。

といっても、夏目先生の言うように、愛が贔屓にならないようには常に気をつけていた。彼女が自分と違う考えのときは、一旦保留して、噛み砕いて、自分なりに納得するという過程を取った。
また、彼女の愛する同業者に迷惑をかける行為の一切を慎むことを心がけた。愛は言葉にできなくても、態度を示すことは楽しくもあった。

結論、彼女が配信をしているから好きなのでもなく、かわいいから好きなのではなく、彼女が彼女であることが好きだった。
もちろん人間だしオタクなので、後ろ暗い感情がゼロだと断言することはできない。だが、そういったものを内に押さえ逆にパワーに変えて、正しい振る舞いで愛を感謝をリスペクトを示す道もあっていいと思えた。


おわりに
当初はもう少し世の中一般のガチ恋と自分との比較でもしようかと思っていたが、推しのことが書きたすぎてこんな感じになってしまった。恥ずかしいし反省している。
ところで夏目先生とその門下生の間にも、ただの師弟に留まらない大きな愛があったように感じられる。小宮豊隆などはおそらく現代でいうならガチ恋である。
しばらく夏目作品で愛について色々考えてみるのも良いのかもしれないですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?