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ちいさな炎 (小説)

 ぼくが小さい頃には、いろんなことがありました。「はじめて」がたくさんあって、一つずつその「はじめて」を受けとめ、自分の中に入れることが、ほんとうに大変でした。
 
 いろんな「はじめて」に出会うたびに、自分の中にある「何か」が反応して、びりびりしびれたり、暖かくなったりします。冷たくなることも、ぎゅっと締めつけられることもありました。ときどきあらわれる不思議な感覚を「ふしぎだな」とゆっくり考える時間もないまま、いろんな出来事はつぎつぎと起こり、そのたびにぼくの中の「何か」の反応も増えていきました。反応は増えるたびに、形になって心の中におさまります。きちんとおさまると、反応と感情を結びつけた言葉になるので、ぼくは言葉で自分の心の中の状態を、表現できるようになります。
 形になった反応が増えるたびに、ぼくは名前をつけて心の奥にある小さな部屋に置いておきました。宙に浮かぶうすい桃色の綿菓子の形は「うれしい」。とげの生えた黒い羽根は「いじわる」。金色のこまかい粒の入ったガラス玉は「楽しみ」。水にぬれて冷たい網は「こわい」。汚れた水槽の中の干からびた金魚は「後悔」。透きとおった瓶の中で光る虹色の光の帯は「期待」……どんなに増えても、心の部屋はいっぱいになりません。ぼくは次から次へと扉を開けて、形になった心の反応をおさめます。これから先、大人になってからも役に立つ。きっと、たくさんあればあるほど、楽しくなる……そんなふうに思っていました。小さな部屋の、手のひらにおさまる小さなノブのついた扉を開けたり閉めたりしながら、ぼくは大きくなっていきました。

 大きくなったときには、心の部屋はずいぶん増えて、蜂の巣のようにぎっしりと並ぶまでになりました。ぼくは大人になっても、自分の感情と言葉を結びつけるために、いそがしく部屋を行ったり来たりすることを続けていました。何度も訪れる部屋もあれば、ほとんど行かない部屋もあり、まったく行かなくなった部屋もあります。行かない部屋にあった感情がどんなもので、何に向かってどんなふうに心が反応したのか、思いだせません。ぼくはときどき、もう行かなくなった部屋の扉を開けて、中をのぞきこんで「何を感じていたのかな」と考えます。暗い部屋の中には大きな雪の結晶の形が見えたり、プラスチックのボタンの目がついたぬいぐるみが椅子に座っていたり、とても薄い布でできた花びらが舞っていたりしています。中でも気になったのは、炎が灯る部屋でした。暗い部屋のまんなかに、錆びた鉄の細長いろうそく立てがあります。ろうそく立ての上の小さなろうそくに、やわらかな橙色の炎が灯っています。暗闇の中でぽつんと灯る炎は、震えるように伸び縮みして、ゆらめくと黄金色に輝きます。見つめていると、炎が自分の心に生まれたときのことを思い出せそうな気がしますが、思いだすことができません。なぜか気になって、ぼくは用事がなくても、その部屋の扉を開けて、その炎を長い間見つめました。炎は小さく、いつも静かに輝きながらゆらめいていました。

 ぼくはずいぶん大人になりました。心の中にはみつばちの巣のように、びっしりと小さな部屋がひしめきあっています。でも大人になったぼくは、あちこちの部屋にはあまり行きませんでした。あちこちの部屋に行って扉を開けたり閉めたりするのも、体を動かすのと同じように、めんどうになってしまっていたからです。部屋がたくさんあればいいと思ったときから、長い時間が流れています。ぼくは、今になって、部屋はあまりなくても良かったな、と考えるようになりました。でも、増えてしまった部屋を減らすことはできません。たくさんの部屋の中に、たくさん反応した「何か」が残っています。ぼくは、ぼくがいなくなったあと、心の中の部屋も消えてなくなるのだろうと考えました。そして、そのたびに、ちいさな炎がゆらめいていることを思いました。

 大人になって長い時間が経って、さらに時間が経ったある日のこと、ぼくは、結婚した女の人と一緒に、山の上にあるお寺に行くことにしました。秋の終わりで、森は赤や黄色に紅葉した葉で色づき、葉が重なった地面はしっとりと濡れて、いびつな形の石を組んで作った石段が山のさらに奥へ続いています。大きな木のてっぺんを見上げると、青い空にふんわりとした雲が浮かんで流れていきます。葉の落ちるかさっという音、名前の知らない鳥が長く尾を引いて鳴きかわす音、どこか遠くで水が流れる音がします。
 古いお寺は遥か昔、ぼくが生まれるずっと前に建てられたそうです。石段を一歩ずつ上ると、お堂に到着しました。木でできたお堂の奥に、仏さまが奉られています。お堂と同じ木の茶色の、小さな仏さまです。とても暗い場所にあるので、どんな顔だちかわかりません。お堂の木のすきまから、昼の光が細い光の筋になって射しこんでいます。仏さまの前には、細長いろうそく立てがあり、そこにちいさな炎が灯っています。炎は小さく揺れ、光の輪になって、暗いお堂の中をほのかに照らしています。ぱっと風が吹いて、大きな木が揺れます。ちいさな炎も激しく揺れて、小さくなりました。でも、すぐにまた、同じ大きさになって、ろうそくの先で光っています。
 ぼくはそのとき、あのろうそくの光が、ぼくの心の部屋の中にあるちいさな炎と同じものだと気がつきました。でも、やっぱり、炎が自分の心に生まれたときのことは、思いだすことができませんでした。