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炎上と告解と。人は言わずにはいられない生き物

SNSなどで好きな推しの周辺にいる人について攻撃的な発言をしたり、ネガティブな発言をする人がときどきいる。本人はその人に直接言ってなくて、つぶやいているつもりでもまわりには丸見えなので、(とくにその推しのファンにとっては)不快なものとしてみる人もいて、その人に対して注意したり、発言する人もいる。

人はそれを炎上というかもしれないが、最近知った用語だけどこうしたファン同士での意見の食い違いや話し合いを「学級会」というそうだ。

この「学級会」意外と目にすることが多く、ぱっとみて、自分のタイムラインが大荒れの感情の渦になっているように見える(笑)

で自分のアカウントなんて推し本人が見ているはずがないと思って書いてるかもしれないけど、有名人のまわりにいる人たちは意外と見ていたりする。

ツイッターなら取り消しもできるけど、中にはこういう人も多い。

「気持ち悪く感じた人がいたらごめんなさい。このツイートは後で消しますので今は書かせてください」とか「10分後に消すけど、ネガティブなこと言います」みたいなのは何なん???こういうツイートは一人だけじゃないのよ。

だったら自分のデジタル日記にでも書いて消せばいいのでは??とか。

結果的に思いは出したくてしかたがないのだろう。それはわかるが、人に見られる場でなぜそれをやるのか。

その背後には人に聞いてほしいというのが必ずあるからだと思う。それは自分の気持ち優先になっていること。

フェイスブックのように実名制のものはあまりない(むしろ、美化しているような感じではあるが) が、匿名の世界ではわりと言いたいことを書く人も多い。それでもそれを読む人はいる。またネガティブ発言に共感や賛同を寄せる人も多くいる。世の中どちらかというとネガティブな感情を感じることのほうが多いから自然なことなのかもしれない。

カトリック教徒では告解というのがあり、罪を告白するために神父様に自分のネガティブな思いを打ち明け、それを神父様は許し、その話は一切他にもらすことはない。ちょっとそれにも近いような感じもした。SNSではだだ洩れだけど。

でも人は言わずにはいられない。それを動かしているのは感情だ。

古い時代ではその地域からあまり出ることはなく、うわさはすぐに広まり、その地域で居づらくなるので、自分のネガティブな感情や思いは押し込め、まわりとあわない部分はなんとかあわせようとしてきたと思う。

だが、それを押し込めすぎるとメンタル崩壊につながることもあると思う。

今の時代のほうがそのメンタルは軟弱でより繊細になっている。

昔はもしかしたら壺かなんかに向かって言っていたかもしれない(^^;)現在はその壺がSNSになっている。(大部分はツイッターやオプチャみたいな匿名性の高いもの)

私個人はネガティブ発言は悪いことではないとは思っているが、特定の個人に対しての意見となるとかなり慎重にすべきと思う。まあ声をあげなければ辞任しない権力者もいるのでときには必要な流れかと思う。行き詰っている社会を改善するために不満があるなら声をあげるべきだ。

問題は誰かが反応することについての視点を入れないと、荒れる可能性があること。発言の責任はたとえ匿名でも自分にあるのだ。

しゃべることでエネルギーを発散させるタイプというのもいるけど、私はけっこう当てはまってたんだよね。アロマやったり感覚的にここちよさを求めるタイプだったりするそう。

SNSでやたらとつぶやきたいタイプはそれかもしれない。思っていることについて話し合ったり、聞いてもらう相手が身近にいないとネットに依存しやすい。むしろ、自分とは身近じゃない人に聞いてほしいかもしれない。

告解では秘密は守られる。ならば現代では心理療法がそれにあたる。心理療法家、セラピストは自分とは友達になることはない。決まった枠組みの中で秘密は守られ、感情を整理することができる。

SNSは決して心理療法の代わりにはならない。誰かに聞いてもらいたいのなら、それは誰もがみられる場所ではないほうがいい。でもSNSで支えられる経験をしていると自分の気持ちを吐き出す場所になっていきやすい。

そのあたりは距離感が難しい。ネットの中にいるのは人間だから、仕方がない。そして推し活のように大好きなものへの感情が強いとよりいっそう、感情から発するものが多くなる。

今の若い人にとってはネット社会での失敗したりしつつ、人との関係性について学んでいくのかなあ。



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