見出し画像

田中さん


「田中さん、田中さん〜」

田中さんを呼ぶ声がする。

職場の公衆トイレ。
私がトイレに行くとよく、この声が聞こえる。
「田中さん〜、どこいったんやろ?」

田中さんを呼ぶのは清掃員のおばちゃんである。
70歳くらいの小柄なおばちゃんだ。

「田中さん、田中さん〜」
田中さんを探している。
なぜだか私がトイレに入ると、このおばちゃんが田中さんを探して呼びかける状況によく遭遇する。
「田中さん〜」また今日もだ。
この、田中さん〜どこ〜を何回も何回も聞いていると、私は思わず返事をしたい衝動に駆られる。
田中さんを探すおばちゃんが不憫であることと、声がずっと気になって、なんとなくトイレの中で落ち着かないからである。

だいたい、田中さんはしょっちゅうどこ行ってるんだ。サボってどこかへ行ったのか?何やってんだよ田中さん。
いや待てよ。もしかしたら、おばちゃんがずっとお喋りに夢中で田中さんは付き合い疲れているとか。だから時々逃亡して、
「もうさあ、ずっと喋ってんだよね。止まんないの。参っちゃう。」
「あーわかる〜」
などと、別の清掃員と愚痴っているかもしれない。

どっちにしろ田中さんはいない、おばちゃんはずっと呼びかける。私は落ち着かない。

ここは一度返事してみようか?
だがこういった場合、「はい、〇〇さんどうしたの?」とおばちゃんの名前を呼んであげなければいけないのではないか?でなければおばちゃんは安心しないだろう。
しかし私はおばちゃんの名前を知らない。困った。
山田さんか鈴木さん、佐藤さんかしら?
いや、ありそうな名前とは限らない。
伊集院さん、綾小路さん、西園寺さん?
なんだか急におばちゃんがお金持ちに思えてくる。

はっ。肝心なことに今気づいた。
私と田中さんは声が違うんだから、私が返事をすれば田中さんでないことがすぐにバレてしまう!
(最初からみんな気づいてる)

ということは田中さんの声に近づけて返事をしなければならない!(やる気か)
おばちゃんの同僚を想像するに…
柴田理恵さんとか。いやダメだ。声に気合いが足りない。すぐにバレそうだ。
阿佐ヶ谷姉妹はどうだ。歌いながら返事をすれば、声がわかりにくい。いいんじゃないか⁈
「はい田中です〜〜♪」
いやダメだ。ハモれないうえに、私は歌が下手だ。
若い清掃員かもしれない。だったら、フワちゃんとか?
「はーーーい!!田中ちゃんだよーー♡」
やっぱりダメだ。残念ながらあそこまでの若さとパワーが私には足りない。

そうだ、清掃員が女性とは限らない。田中さんは男性かもしれない。男性で真似できそうなのは…さかなクンとか?「ギョギョ!田中クンです!」

無しだ。ギョギョと言い続けるくらいなら、おばちゃんが田中さんと呼ぶのを聞き続ける方がいい。

高橋一生さんだったら?
「僕はね、トイレ清掃って、宇宙じゃないかと思うんだ」
「私、トイレ清掃がんばる!うん、がんばる!」って言いたくなる。
ジョン・カビラさんだったら?
「おはようございますみなさん。これから素敵なトイレ清掃の世界にみなさんをご案内いたします。」
掃除が終わったら、香り高いコーヒーでも頂こうかしら。
いやいや、田中さんになりきるはずが、聞いてみたい田中さんの声を想像している。ダメダメ。

あーーどうしたらいいんだ。
このままじゃ田中さんになりきれず、おばちゃんに返事できない。田中さんの呼びかけは続く。

と思ったらいつのまにかおばちゃんの呼びかけはなくなり、おばちゃんはどこかへ行ってしまったようだ。諦めたのね、あーよかった。

トイレから職場へ戻り、私は無意識にふぅとため息をついていた。同僚が「どうかしたんですか?」と聞いてきた。

「田中さんにどうしたらなりきれるか考えていた」

なんて答えられない。




#エッセイ #短編小説 #妄想 #人々 #日常 #イラスト #田中さん






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?