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信長のパーパス|天下布武② パーパスの齟齬と本能寺の変

パーパスの切り替えによる織田家中の不協和音

昨今、欧米企業を中心に広がりを見せ、日本企業でも導入がされつつあるパーパスですが、組織としてのパーパスと従業員個人としてのパーパスの親和性が重要と言われています。

組織と個人のパーパスの一致度が高いと従業員のモチベーションはあがりますが、一方で親和性が低下すると働き甲斐はダウンします。

不一致が進むと、仕事へのサボタージュや業務でのトラブルが起こったり、従業員の離職へとつながります。

これと似た状況が、「幕府再興による天下布武」を掲げて畿内を制圧した後の織田家にも起こりました。

1573年の将軍義昭との決別です。但し、この追放のきっかけは信長にではなく15代将軍の足利義昭の失政にありました。

義昭の追放によって信長による直接統治が始まります。

そして、必然的に「織田家による天下布武」へとパーパスの変更が必要になりした。


義昭の追放と織田家のパーパスの変更

義昭は恣意的な処置が多く畿内周辺の諸勢力からの反発を買っていました。

例えば大和では、同盟者である松永久秀ではなく、ライバルである筒井順慶を支援します。久秀を牽制するためでした。

その結果、久秀の離反を招き、逆に阿波の三好家と組まれて反攻攻勢を受けるようになりました。

それに呼応する者も増え、義昭は苦境に陥ります。

この苦境を脱するために、1573年に敵方であった三好家や武田信玄、本願寺などと結んで信長の打倒を図ります。

しかし、信玄の死もあり、逆に義昭が京から追放される事になりました。

畿内を管轄する幕府が消滅した事で、代わりに信長が直接統治する事になります。

それにより「幕府再興による天下布武」から「織田家による天下布武」へとパーパスを切り替えざる得なくなりました。

織田家を中心にした強権的な天下布武となり、しかも、天下=五畿内という意味だったのが、天下=全国を指すように勢力拡大に邁進し始めます。

そして、一部の家臣や同盟者とパーパスの不一致という問題が出てきます。


織田家の家臣団や同盟者とパーパス

織田家の家臣団や同盟者は、天下布武を掲げる前とその後に参加したグループに大きく分けられます。

この辺りが織田家中での譜代家臣と外様家臣のラインともいわれています。

天下布武を発する前から家臣となった者や同盟していた者は、パーパスの一部が変わっても概ね最後まで信長につき従います。

柴田勝家や羽柴秀吉など古参の家臣や、古くからの同盟者の徳川家康などです。

彼らは信長個人との繋がりが強いためパーパスの変更が起きても態度を変えません。

謀反に呼応することなく、信長の命に従い粛々と鎮圧にいそしみます。

これは元々、組織というよりも信長個人への帰属意識が高いからかもしれません。


《天下布武前》からの家臣団や同盟者

佐久間信盛:1580年に追放まで
柴田勝家:謀反せず
丹羽長秀:謀反せず
羽柴秀吉:謀反せず
滝川一益:謀反せず
徳川家康:謀反せず
浅井長政:1570年に反旗


一方、「幕府再興による天下布武」を掲げた後に参加した者たちは、将軍義昭が追放されて「織田家による天下布武」となって以降、次々と信長から離反していきました。

パーパス変更に対して、幕府と縁のある者たちほど戸惑いが強かったようです。

義昭の主導の織田包囲網に呼応していきました。

《天下布武後》からの家臣団や同盟者

明智光秀:1582年に謀反
細川藤孝:謀反せず
荒木村重:1578年に謀反
松永久秀:1577年に謀反
別所長治:1578年に謀反
波多野秀治:1576年に謀反
九鬼嘉隆:謀反せず
京極高次:1582年に光秀に呼応
武田元明:1582年に光秀に呼応
一色義定:1582年に光秀に呼応

畿内の多くの家臣たちは、1573年から1582年の武田家滅亡までの織田包囲網が形成されていた間に謀反を起こしました。

そのなか、明智光秀は一足遅れで織田家による天下布武が目前になった状態で突如謀反します。


光秀が織田家に仕える動機

光秀の動向を見てみると、組織と個人のパーパスで揺れる姿が浮かんできます。

光秀は元々は下級の幕臣として幕府再興のために織田家に近づきました。

当初は「幕府再興による天下布武」に賛同したメンバーでした。

その後、義昭が追放され、「織田家による天下布武」に変更されても、光秀は織田家に留まります。

義昭では光秀が理想とする天下布武は難しいと判断し、信長に従ったのだと思います。

そのため義昭による織田包囲網で畿内の家臣が謀反をしても、それに呼応せずに鎮圧に努めました。

織田家の重臣として畿内方面軍を束ねる軍団長のような地位にまで上り詰めました。

しかし、武田家を徹底的に潰し、四国の長宗我部征伐と中国の毛利征伐が本格化しようとした段階、つまり「織田家による全国統一」が手に届きそうなタイミングで本能寺の変を起こしました。

光秀は強権的な手法による全国統一に不満があったと考えられます。

徐々に組織のパーパスと自分のパーパスとの齟齬が大きくなっていました。

では、どのような形での天下布武を望んでいたかを、本能寺の変の動機から考えてみます。


本能寺の変とパーパス

本能寺の変の理由は色々な説が飛び交っております。

その中でも信長への怨恨説が有名ですが、最近では信憑性が弱まりつつあります。

一方で、理想相違説と四国説、将軍指令説など別の側面からの理由が注目されています。

怨恨説信長は短気かつ苛烈な性格だったため、日ごろからひどい仕打ちを受けていた個人な恨みによるという説。理想相違説織田家による天下統一ではなく、光秀は幕府再興による天下の安寧を理想としていた説。四国説光秀が主導していた長宗我部氏との融和政策から、秀吉の三好氏との連携による武力討伐への路線変更への不満による説。将軍指令説義昭より旧幕臣たちへの調略があった説。紀州の土豪への手紙で義昭を迎え入れて幕府再興を企んでいたと言われている。

怨恨以外の説から逆説的に信長との不一致を探ると「秩序」「融和」「安寧」というキーワードが見えてきます。

少し強引ですが、「秩序ある融和的な天下布武」をパーパスとして持っていたと考えると、秩序を保つための指導力がない義昭に見切りをつけたのも理解できます。

しかし、秩序を生み出す力のある信長の家臣となったものの、武田家を殲滅した甲州征伐のやり方は、在地勢力との融和的な天下布武とはほど遠いものに映ったと思います。

武田の後には、四国征伐と中国攻略が控えており、強権的な天下布武の達成は時間の問題でした。

現代であれば、パーパスが気に入らなければ離職や転職ができますが、戦国時代に主家から離脱するには、身近な者だけを率いて出奔(亡命)するか、一族郎党で謀反を起こすしかありませんでした。

どちらを選択しても命懸けでした。

光秀は自身の軍団を使って信長による全国統一を阻止し、旧大名家や諸勢力を包含した融和的な政権を自分の手で運営しようとしたのかもしれません。

パーパスの齟齬が生み出した歴史的事件と見ると興味深い事例となります。


まとめ

この織田家の事例からも、組織のパーパスが変わるとパーパスに共鳴している者ほど離れていった事が分かります。

組織のパーパスの安易な変更には、大きなリスクがあるので注意が必要です。

そのリスクを防ぐためにも、まずパーパスの策定は慎重に行い、もし変更が必要となった場合は、メンバーの離脱というリスクも想定して、組織内の意見を吸い上げながら慎重に行うことが重要です。

ちなみに、光秀のパーパス「秩序ある融和的な天下布武」は、皮肉にも光秀を倒した豊臣秀吉に引き継がれたと思います。

秀吉は強大な戦力を背景に、旧大名家や諸勢力をうまく取り込みながら天下統一を達成しました。

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