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【諏訪頼忠】一所懸命をイノベーティブな決断で捨てる

諏訪頼忠のイノベーティブな決断で新時代の大名となる

一所懸命とは「自分の名字の由来する土地に命を懸ける」という意味・語源の四字熟語です。

戦国時代の武士たちにとって、先祖代々の土地は、自分の命以上に大事で、生死を懸けて守るものでした。

諏訪家と言うとかなりマイナーな信濃の戦国大名家ですが、2021に週刊少年ジャンプで北条時行を主人公にした「逃げ上手の若君」という漫画が始まった事で、広くその名前を知られるようになったと思います。

主人公の時行を助けるのが、鎌倉時代末期の諏訪家当主である諏訪頼重です。

色々と脚色はされていますが、史実でも頼重は時行を報じて、足利家に対抗して、戦いを続けます。

その頃から、足利方である信濃守護の小笠原家との因縁は深く長く、戦国時代においても信濃で主導権争いを続けました。

漫画の「逃げ上手の若君」の中でも、諏訪家と小笠原家の争いが描かれています。

しかし、本当の敵は信濃国内ではなく、隣りの甲斐国からやってきました。父の信虎を放逐し、武田家の実権を掌握した武田信玄です。

信玄の侵攻を受けて、当主であった諏訪頼重が自害に至り、1542年に戦国大名としての諏訪家は滅亡します。

頼重の従兄にあたる諏訪頼忠は、残った一族内で主導権争いをしながら、武田家に臣従しつつ、イノベーティブな決断によって、諏訪家の大名復帰を達成します。

激動する外部環境の中で決断していく

当主不在の諏訪家は、信玄の四男の勝頼が継承し、諏訪勝頼と名乗ります。

生まれた時から諏訪家を継ぐ事が決まっていたため、名前には、武田家の「信」ではなく、諏訪家の「頼」が入っていました。

頼忠たちは、武田家に臣従して雌伏の時を待ちます。

1582年に、その武田家が織田家に滅ぼされると、頼忠は、家臣たちを率いて、諏訪家の復興のため動き出します。

同年に、本能寺の変で信長が倒されると、占領されたばかりの甲斐信濃は、大混乱に陥ります。

その間隙を突くように、頼忠は、旧領である諏訪郡の高島城を取り戻します。

この天正壬午の乱と呼ばれる争乱を、周辺の大大名が見逃すはずもなく、徳川家、上杉家、北条家が、兵を派遣して、勢力争いが激化していきます。

この混乱の隙間を縫う形で、真田昌幸は従う相手を変えながら、最終的には自力で大名としての独立を果たします。

頼忠も、当初は北条家に臣従し、徳川家に対抗しますが、因縁のある小笠原家など徳川方に敗北し、和睦の上で臣従することになりました。

ここで徳川家や小笠原家に徹底抗戦せずに、家臣となる事を決断した事も、重要な転換点になります。

徳川家につき従い旧領を放棄するというイノベーティブな決断

頼忠が、徳川家に仕える事を決めた事で、家康からは諏訪郡の旧領を安堵され、一時的に諏訪家の復興に成功しました。

しかし、1590年に、徳川家康の関東入封が決まったことで、状況は流動的かつ不安定になりました。

長年、苦労してやっと取り戻した旧領ですが、頼忠は、主の家康につき従って、新天地である関東へ移る事を決断します。

当時の武士は、先祖代々の土地へのこだわりは強いので、これを捨てる事は、非常に難しい判断です。

しかも、諏訪家は、代々諏訪大社の大祝を務める家柄で、諏訪郡という土地への密着度は、平安時代にまで遡るほど深いものでした。

徳川家を出奔する事も選択肢にありますが、その中、頼忠は、こだわりを捨てて、見知らぬ武蔵国や上野国に与えられた領地へと移りました。

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先祖伝来の土地に執着する旧来の武士でなく、上の意向に合わせて転勤に応じるサラリーマンのような新時代の武士へと変革する事を選びました。

戦国時代においては、かなりイノベーティブな決断です。

徳川家への臣従に続いて、ここでの選択が、諏訪家の再度の旧領復帰へとつながります。

ちなみに、仇敵でもある小笠原家も紆余曲折を経て、徳川家に臣従し、関東入封してきたため、何の因果か徳川家中で同僚となります。

1600年に、家康が関ケ原の戦いに勝利して、政権を掌握すると、頼忠の功績を認められ、旧領である諏訪郡高島城2万7千石へと再封され、大名となります。

信玄に滅ぼされてから60年を経て、旧領を回復する事に成功しました。

そして、諏訪家は、江戸大名として、一度も転封されることなく、幕末を迎えます。

まとめ

頼忠が、念願の旧領を回復できたのは、それぞれの岐路で、難しい選択を間違えなかった決断力にあったと思われます。

特に、下記の二点が重要な決断でした。

①天正壬午の乱での徳川家への臣従
②北条征伐後の徳川家の関東入封への同伴

特に、②の旧領を捨てるというイノベーティブな決断は、非常に難しいものだったと思います。

現代でも厳しい状況下で、難しい判断せねばならない場合があります。

そんな時、この頼忠の事例は、規制概念に捕らわれない決断をする事は、非常に重要な事だと思わされます。

歴史ある諏訪大社の大祝を先祖代々務めてきた諏訪家にとって、その大社及び諏訪郡を離れることは、当時では考えられない行動だったと思います。

しかし、旧来の考えに捕らわれないイノベーティブな決断をして、徳川家につき従い関東へ移った事で、10年後に再び旧領に大名として復帰できました。

頼忠の行動力と決断力は、環境変化の厳しい現代でも参考になると思います。

ちなみに、1865年に、諏訪家,と小笠原家は、揃って老中にでは就任しています。

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