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桜をやり過ごす 傷ついた“新卒”たちへ(前編)

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし /在原業平

むかしからこの花はひとの心をかきたてていく。
桜。
めでたい春の
この国の
宴の
はかなさの
それから、新生活の。
象徴としてできすぎた花が今年も咲いていた。
例年よりも人知れず列島を北上して、もう過ぎ去ったことだろう。

桜は新しい環境への門出や生活の変化の隣にあって、瞬間を晴れやかに飾り立ててくれる。
その名演出でもれなく記憶に居座っては、見る者に個人的過去——思い出を再生させる。
同時にそれは、この世界に絶対の、抗えない、大きなリズムがあることを教えに来る。
世界が繰り返しと積み重ねの理性的な総体であることを教えに。春のたび、律義に。
「この咲き姿に華々しい、あるいは悔やむべき過去を思い返しているところ恐縮なのですが、私が咲けばあなたも歳をとります。世界は歩みを止めないのですよ。」
そうして望もうが望むまいが、見る者をどうにか未来へ向かそうとする。


わたしが「新卒社員」になったのは、今から三回前の桜のころだ。
職場からは神田川沿いに薄桃色の花の道が見えた。そこから丘をひとつ越えて桜の名所千鳥ヶ淵にも足を延ばしたことがある。きれいだったと思う。その時は、きれいだと思えていた。就活のときと同じ黒地のスーツに身を包んで、それから漠然とした不安も包み隠して、しゃっきりした白い光のなかにいた。ほんとうは、期日も数字も満員電車も残業も必ず来る朝も男性としての生活も円滑なコミュニケーションもすっかり怖かったのに。

わたしがはじめて会社を休んだのは、二回前の桜のころだ。
「社会人」生活の不安はもうフレッシュなスーツでは隠せなくなり、ただ無感情に働くことでわたしは痛みをごまかしていた。仕事は次第に過酷になり、およそ半年のあいだ、日が昇る前に出社して、その日最後の電車で帰った。その年の「新卒」を社内で見かけるようになったころのある朝、会社まであと少しのところでわたしの足は止まってしまった。その日の午前のうちにわたしはうつの診断を受ける。

なんでこんなことになったのかな。空虚なつぶやきが胸のうちに滲んだ。そこからはもう何の気もなく、あるいは少しでも救いを求める気持ちで、「こんなこと」になる前に過ごした場所に向かうことにしたのを覚えている。ほんの一年前に卒業した大学のキャンパス。かつての居場所に行けば心が落ち着くかといえば違う気もしたし、その行為自体が感傷っぽくて自嘲したくもなったけれど。もう恥もプライドも問題外だった。
かつての大学は、会社からの徒歩圏内にある。わたしはほんとうに小さい世界に生きていた。

とめどなく差し出される手がそれぞれに違う未来を示してくる。各サークルの新入生募集だ。入学式を終えたスーツ姿の新入生たちはあっという間に大量の勧誘ビラに囲まれたけど、歩き慣れたわたしは彼らの裏をすっと抜けて歩く。そうでなくとも、わたしは彼らと同じように誘われることはないし、その権利もなかった。
この時期の大学が新歓で賑っていることを忘れていた。一年ぶりに足を踏み入れたキャンパスの騒々しさに衰弱した胸がざわめく。そういえば、入学したばかりの頃のわたしもこの喧騒に怖気づき、そしてどこか馬鹿にしていたっけ。
ちょっと垢抜けた青年たちがやっぱりどこか垢抜けない新入生に浴びせる無数の呼び声は八方から重なり、春空に響く応援隊の鼓笛のリズムに刻まれ、もう何を言っているかわからない。テニス、茶道、旅行、演劇、法学、それぞれのアイデンティティに括られて、青春が群れなしている。エネルギーが渦巻いている。桜が咲いていた。

新入生。めまいがするほどの自由から、あの子たちは未来を選ぶ。
桜の季節の活気に背中を押されて、選ばないといけない。
世界は歩みを止めないから。
それでも。
いたと思う。
七月まではLINEしてたとか、この場所が大好きですと言ってたのに人知れず消えていったとか、そういう子たちがいたと思う。
選択はいつだって正解なわけではないから。ある時選ばなくてはいけなかったように、降りなくてはいけなかったのかもしれないから。
あの子たちはその後、どこでどんな物語に参加しているんだろう。

その年の夏、わたしもまた、会社を「消えていった子」になった。そうしなくては自分自身が消えてしまいそうだった。
しばらくは、傍から見れば無為に過ごした。救命浮き輪みたいなカラーリングのカプセルを飲んで、なんとか虚無に溺れないように生きた。ともかくままならない心身を温めながら、ひと冬を越した。

そうして次の桜が咲くころ、世界のリズムに誘われて、小規模な社会復帰というのをした。ただし、キャリアという面でいえば、わたしの物語はいとも簡単に断絶している。
——前職の経験から得たものは何ですか。
どうしてあの「社会人」としての経験をポジティブに語り直すことができるだろう。

(後編につづく)

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