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自分の学習体験とその弊害

こんにちは、森本といいます。
福岡でCAN!Pという団体に所属し、民間学童保育や探究学習を中心としたスクールを運営しています。

今日はすごく個人的なジャーナルなのですが、なんとなく「書く」という行為を通して現時点の思考を整理するしておきたかったので、こちらに残しておきます。

日々子どもたちと接していると良くも悪くも感情のブレがあり、そこを自覚して受容することから前に進める気がするので、そんな気持ちでつらつらと書き進めます。

幼少期からの自分自身の学習体験

自分の小学生時代を振り返ってみると、いわゆる学校の勉強では一切困らないタイプの子でした。

別に自慢がしたいとかではなく事実そうでした。これは当時の自分の性格や環境が大きかったと思っています。
言われたことを言われた通りにやるのが当たり前だと思っていたし、指示通りにできてしまう子で、評価もされるので、ますますその部分が強化されていきます。

親から勉強しなさいと言われた記憶をどう思い出そうとしても思い出せないのですが、それもそのはずで言われなくても勝手にさっさと宿題を終わらせてしまうので言う必要なんてなかったのだろうと思います。

おそらくとても育てやすい子だったでしょう。

高校生になって初めて手が出ないなと思うレベルで勉強が難しいと感じるようになりましたが、大学受験も気合と根性でなんとかしてしまいました。

睡眠時間を削って勉強をしたことで、学んだ内容はさておき「ひたすら努力をした」という部分が強化されてしまい、たいしてネガティブな体験にならずに終わってしまいました。

幼少期からある種サイコパス的に自分を律し続けてきたというのが、自分自身の学習体験で、これが大人になってからの自分を形成しているのは揺るぎない事実でしょう。

自分の学習体験をアンラーンニングする毎日

今まで書いてきたことは到底自分を美化したいという類のものではなく、今は過去の自分の体験が邪魔になることが多くあると感じています。

実際に子どもたちと毎日対峙するとよく分かりますが、自分と同じ思考を持った子なんてまずいません。

自分が学んできたやり方や体験をもとに子どもたちに接すると、思いもよらぬ子どもたちの表現や態度に出くわすことがあります。

これは自分自身の学習体験というレンズを通して子どもたちを見てしまっているからであり、そのレンズを通してみる以上、本当の意味での目の前の子の願いや気持ちは汲み取れていないことになります。

理解しようとはするのです。

しかし「果たして本当の願いを自分は理解できているのだろうか?」といつも悩みます。

言い換えると、知らず知らずのうちに自分は過去の自分が学んできた側の論理で子どもたちを見ている可能性があり、今まさにこれから学ぼうとしている学ぶ側の論理に立てていないのだと思います。

自分の学習体験のアンラーンニングをし続けないといけないなと感じることばかりです。

ある女の子に言われてハッとしたこと

先日ある女の子とその日に取り組む勉強内容をどう決めようかと話していた時のこと。

明らかにやる気がない様子だったので、少しでも取り組む意欲につながってくれたらという願いで雑談したつもりでしたが、「それって先生側の視点ですよね。私は私なりに色々やってるんです」と一蹴されてしまったことがありました。

言外にある「やるべきことはきちんとやろう」というメッセージを感じてしまったが故の発言でしょう。後で振り返ってみた時に、目の前の子の心からの願いを受容するよりも、教える側の体裁や保護者がどう感じるかを意識していた自分を自覚しました。

根源的には「きちんとする」みたいなものが自分の学んだ学習体験から色濃く価値観として出てしまうのかもしれないなと思いました。


あえて自分の学習体験を例に出して書いてみましたが、誰しもが自分の学習体験を持っているはずです。

それを活かせることもあれば、かえって弊害になることもあります。

大事なことはここに自覚的であるかどうかであり、向き合おうとするかどうかなのではないかと自分を納得させています。「納得させる」という中途半端な書き方をしたのは、自分自身もまだまだ探究の道半ばであり、はっきりとした答えを出せていないからです。

少しずつ丁寧に向き合って、自分の成長に繋げていきたいと思います。

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