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『アレックスと私』を読んで

アイリーン・M・ペパーバーグ著  佐柳信男訳 ハヤカワ文庫 2020年出版

 アレックスというオウムが人間と言語を使ってコミュニケーションできるか、ということを研究した人の研究記録エッセイ。

 はじめに最愛のオウムが死んだところから話が構成されているのだが、一冊の本として流れがよいな、と思った。

 「コミュニケーションというのは社会的な営みである。ならば、コミュニケーションを学習するプロセスも社会的な営みだと考えるのが当然だ。」といい、まず、オウムにもう一羽鳥を飼って仲間を作るところから飼育を始める。

 「コミュニケーション能力を教えるためには、社会的なやり取りの豊かな環境が必要であること」とし、教え方も人間がペアになって、言葉のやり取りするところを見せる。

 「アレックスはラベル(ものの名前)をおぼえ、言葉で要求する方法を知っていた。そのことによって、彼は自分のまわりの環境をコントロールすることができ(つまり、まわりの人たちを意のままに動かすことができ)彼はその能力を存分に行使した。」段々、わがままをいったりして、研究者の気を引くようになるオウム。頭がいいの一言に尽きるが、人間じゃなくても、人の気を引きたいという気持ちはあるらしい。もちろん、エサがほしいからといった理由もあるが。

 「動物は思考を持たないオートマトンとは程遠い存在だ」とあるように、オウムは思考を持つ、というのは彼女の研究で充分分かった。しかし何をもって「思考」というのか疑問が私に残った。

 もともと動物を人間が飼うというのは不自然なことだと私は思う。それに言葉を教えて人間の知識を押し付けて、人間と同等の脳があるとか、感性があるとか考えるのって若干厚かましい、というか、果たして、それが価値のあることなのだろうか、と考えてしまった。だが、このアレックスと言語を介したやりとりや、表情、態度、といった観察からみられる記録は、本当に人間みたいだな、とは思った。とは思ったのだが、果たして人間みたいなことが、イコール思考できる、ということに繋がるのだろうか、とは思う。動物だけにしか分からない言語というものもあるだろうし、それは必ずしも、「人間と同じように」とはならないように思う。

 しかし、そうはいっても、私も実家で犬を飼っており、犬が人間と同じような感情表現をみせると、うれしい。でも、ひもに繋がれたままの生活を彼に強いているのは人間だし、犬がもし人間だったら、虐待である。そもそも「ペット」ていう概念はなかなか難しい。人間が動物という他者である生き物をコントロールできる範疇で共生していると思うし、コントロールできないとペットとして飼えない。

 この本を読んで、動物のあり方を、人間の価値観ですべて測っているように思ってしまい、それに一喜一憂していることに人間の愚かさを感じたし、かといって、筆者が研究者として、アレックスと過ごして観察してきたことは、新たな発見を人間にもたらしてくれているとは思った。私としては、動物と人間の関係性をもっと考えていきたいと思った。


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