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誰かに救われたいという気持ちーー村上龍著『最後の家族』を読んで

 村上龍著 幻冬舎 2003年出版

 昔のブックリスト見てたら、この本のタイトルがメモしてあって、読んでみようと思って図書館で借りた。すごく良い小説だった。

 ひきこもりになった男性の家族がどんどん崩壊していくのだが、最後にはなんとなくまとまる、というお話。

 村上龍のあとがきによると「この小説は、救う・救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考え方は自立を阻害する場合がある。」と述べていた。

 主人公の男性が隣近所の家をのぞき見して、ドメスティックバイオレンスを発見するのだが、弁護士などに相談しても、結局きみができることはない、と言われる。訪れた弁護士の人とのやり取りは、ちょっと涙ぐみそうになった。結局、できることはないんだが、自分が、その殴られている女の人を救うことによって、自分が救われるんじゃないか、と思っているのではないか、と言われる。そして、男性が泣き、そうかもしれません、と認める。素直に認められるということは、きみは、人に救われたことがあるのではないか、と言われる。そこから自立しようという気持ちになる。

 村上龍の小説はだいたい最後に破滅的な救いのないエンディングで終わるので、ちょっと読み終わってやな気持ちになったらやだな、と思ったが、この小説は父親も妹も母親もそれぞれが自立の道を歩む形で終わる。ドメスティックバイオレンスを受けていた隣近所の人は救われなかったが、その引きこもりの男の子がめざめるシーンは感動的なものがあった。

 私は誰かに救われたい、って思いすぎなのかもと思った。誰も救ってくれる人はいない。でも、この主人公の子と同様で、母は私を見捨ててないじゃないか、と私も思った。なんか、他人に救われたい、という気持ちと、誰かを救ってあげたいという救済の気持ちというのは、結局、自分が誰かになんの見返りも求めずに救われたことがあるか、という話になり、その経験があるかないかで、人は違う生き方をする。救済の精神ってなんか母性愛的な無条件の愛と通じるものがあるな、と思ったが、それは、母親だけが持ってる愛とは限らないと思った。


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