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『言葉と衣服』蘆田裕史著を読んで

蘆田裕史著 アダチプレス 2021年出版

 ファッションのことで、アカデミックな研究をしている人の本を読んでみたいと思って、蘆田裕史さんのこの本を探して購入した。ファッションにまつわる文章と言ったら、いまやブランドとなっているデザイナーの生涯や、はたまた新聞に書かれている今年の流行はこの花柄にこの色です、といったような文章にしか突き当らない。歴史がないわけではないが、学問として取り組まれてきた歴史が浅い。ファッションのことが好きだが、もっと学問的に体系づけられた本を読みたいと思った。

 まず、「ファッション」「デザイン」「スタイル」という言葉の定義から始まる。ファッションの研究分野がこういった言葉が曖昧に使われてきたためだ。そのため「モダニズム」などという言葉を芸術や音楽などからの分野から考えてみるため、バルトやグリーンバーグから引用している。確かに「モダニズム」という語は微妙だ。哲学の分野では広く使われてきたが、ファッションの世界でもいわゆる「モダン」の定義づけが重要になってくる。シャネルがモダニズムだ、と言われても、なんのことなのかよく分からないし、そういっている人もなんのことを指すのかよくわかっていないのだろうと思う。確かに、ファッションについて語られるとき、カタカナ使われる言葉があまりにも曖昧である。多分、日本語に置き換えることが難しいからそのままカタカナになっているのであろうが、そのカタカナで使われるようになってからあまりにも長い時間が過ぎている割には、定義は曖昧なまま人々に受け入れられているのが現状だ。そこがファッションを論述していくにあたって、障壁となっているのは頷ける。

 ハーバーマスが「つねに新しさを求めるモダニズムは自己を否定する運動と言い換えることができる」といい、グリーンバーグは「固有性を純化させるという意味において「自己ー批判」とモダニズムを定義」という。「実のところモダニティの本質は自己否定なのだ。」ということになっているが、ファッションで言われている「モダニズム」もそれが適応するのかは、謎である。そこからアヴァンギャルドへと繋がっていくのだが、それはもっともだと思うが、ファッションの世界で言われる「アヴァンギャルド」ってもっと意味が簡略化されているというか、過去とは切断された前例を見ないといった程度の意味でしか私は考えてこなかった。多分それは、衣服という、可視化されたものを前にいわれることが多いので、その分、言葉の意味が単純化されやすかったように思う。

 改めて言葉の定義から始まって、衣服を考えると、そのファッションを通して今まで使われてきた言葉に、疑問が立ち上がった。かといって、哲学的な意味と接続してみると、ファッションはもっと身近に普段日常会話で交わされる簡単な言葉の意味も含んでいるような気がして、そういうところも、汲み取っていかないといけないな、と思った。というか、モダニズムという言葉があまりにも頻繁にいろんなところで使われているので、訳が分からなくなっているのが最近の私の現状。

 「ファッションデザイナーはブランドをデザインするにあたって、「いま、ここ」における共時的な差異化をまずもって考えねばならないといえるだろう。」p. 57 ファッションが、その場、その時限りのものとして消費されていくものであることも、学問的に取り扱われてこなかったことと、使われてきた言葉もその場で商業的な意味で消化されてきた原因だろうと思う。

 最後の章は、鷲田清一さんが『モードの迷宮』などの著書で取り上げてこなかった問題をエヴァンゲリオンやシュルレアリスムを取り上げて衣服を「潜在的な身体」として捉える。インターネットを通してそういった考え方がより有効になってくると思うが、「潜在的な身体」についてもっと説明が必要なように思った。

 マクルーハンと鷲田さんの共通点を「衣服を第二の皮膚と捉えるにせよ、身体第一の衣服と捉えるにせよ、二人とも衣服と身体は層レイヤーを形成していることが想定されているのだ。」p.145とあげるが、蘆田さんは「衣服と身体は層レイヤーの重なりを作るものではなく互いに「反転可能な表と裏」なのである。」p. 155 という。

 それは衣服を「潜在的な身体」として捉えるから、表もなく裏もない反転可能なものとして言えるのだろう。現代において、衣服がそういったものであると考えることは納得がいく。

 これからのファッションの世界でこのような書籍がもっと出版されることを願う。


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