人は”負債”と共に生きていく ゴジラ -1.0感想
先日、アカデミー賞でまさかの「視覚効果賞」を受賞した「ゴジラ -1.0(以下ゴジマイ)」。
もともと見ようと思っていたのですが、遅くに遅くなり、つい先日まで見る機会を逸していました。
で、ようやく劇場で観てきました。
もうね、掛け値なしの名作。
それはゴジラの特撮もすごいのですが、人間ドラマとして非常に完成度の高い映画でした。
本映画は語り口が多いので、なかなかどう語ったものか、と頭を悩ませる映画でもありました。
映画の中で語られる主人公の、ゴジラの、そして日本という物語の厚みがとても深いからです。
とりあえず、思ったところから書いていこうと思います。
駆逐艦が出ただけで泣く
自分は過去に艦これというゲームをしていました。
旧日本軍(および海外)の戦艦を擬人化するというゲームなのですが、キャラクターを知っていくと自然に元ネタとなった軍艦たちがどのような運命を辿ったかを知るところになるわけです。
例えば、戦後台湾に譲渡され名を改める雪風やソ連へ移譲される響などなど。
要は、そういった日本のために戦いながらも運命に翻弄され、日本の地を踏むことなかった戦艦たちが、再び日本のために集まるという展開にがあるわけです。
こんな展開、オタクは弱いに決まってますわよ。
物語の後半ではありますが、ここで彼女たちが再び集い、それも戦争のためではなく日本のために戦うシーンは涙なしに語れないのです。
恐らくたいていの人にはただ胸熱なシーンではありますが、背景のそういう文脈を知っていればこのシーンだけでもご飯三杯ものなのです。
重巡高雄や、試作機段階で終わり、終ぞ日の目を見なかった震電の活躍など、「戦争という運命の中で生き延び、しかし運命に翻弄され続けた」兵器たちに光が当てられた瞬間は、マイナー兵器の活躍にとどまらない文脈を有しているのです。
生き延びたということ
しかし、この「生き延びた」というのはゴジマイに通底するテーマでもあります。
舞台は戦後の日本。東京大空襲後のバラックすらない、瓦礫の中で生活する人々の中で物語は始まるのです。
アメリカやソ連のように戦勝国として新しい時代を築く国々のように、戦争を終えた、のではない。
地獄のような戦場から帰ってきた軍人や生活を焦土に帰された国民、そして国土からの視点では、終戦の後は「生き延びた」あるいは「生き残った」という言葉しかないのです。
ですが同時に、そこには単純な被害者だけではない。国土を守れなったというある種の加害者がおり、さらにその被害者から糾弾される加害者という、複雑な被害ー加害の構造もあるのです。
生き延びたから良し、ではない。
生き延びたが故の罪悪、生き延びたが故に背負う負債が常に物語中に立ち込めているのです。
その場所から再び生きてゆかねばならない。そんな日々の中で少しずつ前へ進み、数年を経て日本がなんとか日常を取り戻してきていた、そんな最中の話なのです。
物語の始まりから、ゴジマイに出てくる人たちは皆負債を抱えている。生き残ってしまったという負債。
これこそがこの映画の核でもあります。
中国の三体、アメリカのアメリカン・スナイパー
ときに、作者の絶対性を超越し、その国や地域でしか生まれ得ない作品が出現します。
例えば、文化大革命という理性に対する絶対的な破壊行為を経験した中国から生まれた「三体」。
例えば、ベトナム戦争から続く、軍人としての栄光とPTSDという暗黒が社会に深い傷を残しているアメリカに生きた「アメリカン・スナイパー」。
そしてこのゴジマイも、日本からしか生まれ得ない作品なのです。
大日本帝国という歪な近代国家とその結果としての太平洋戦争の敗北者、全世界で唯一の被爆国、東洋の奇跡と呼べる経済復興と失われた30年という経済停滞の負債。
これらの、過去と作中の現在、その先にある未来と我々の現在から抽出し、連綿と受け継がれている空気の中でしか生まれ得ない映画なのです。
この映画には、日本という受け継がれた歴史からしか生み出し得ない、シンギュラリティとしての側面があります。
現代日本が抱いてきた、そして抱いている”負債”を映画として滲み出ているからこそ、ただの怪獣映画ではおさまらない迫力と面白さがあるのです。
過去の負債の中でしか、人は生きていけない
背負った負債は、背負わなかればならないものばかりではなく、背負わされたものもあるのです。
明子のように誰かに押し付けられた負債もあり、「日本国民」というコミュニティに背負わされた負債でもあります。
自分の引き金だけの負債ではない、誰かの負債までも背負わなければならなかったのが、敷島たちであり、この負債をどう清算するか、というのが物語のキモでもあります。
結局のところ、その清算は現在の行動の中でしか行えないのです。
稼ぎに出るために機雷掃海の仕事に行ったり、家族になることを決意する。
そうやって、いまを生きてその結果として少しずつ過去は清算され、未来に繋がっていくのです。
けれどもその負債があったという過去はいつまでもついてくる。
物語の最後、典子の黒い痣は監督も明言していませんが、何らかの後遺症であったり、そういう類の負債であるのでしょう。
そこにあるのは、善悪の多寡でも、損益の分岐でもないのです。
過去には負債も投資もある。けれど、それとどう向き合い、立ち向かうかは現在を生きるものの特権であり、義務でもあります。
確かに、この映画は一見大団円に見えます。
しかしよくよく読みこむと、本当にそうなのかなあ、と思わされます。
典子の首元、再生するゴジラ、首都の復興、撃退を民間でやってのけてしまったこと。
彼らの先を思うと、未だ背負わされた負債の重さは、まるで我々の足元の鎖のように思われます。
読後感の良さとあとあとに来る苦味のような複雑さ。
ここまでの映画には、なかなかに出会えないです。
久々に善い映画をみることができました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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