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あるがまま - 仏教の極限

初期の仏教は、家族も社会も捨てる出家主義であり、心身の止滅を目指すという、徹底的に現世否定的な思想でした。

その後の仏教の歴史には、仏教でありつつ、現世肯定的で、創造性を評価する思想、「あるがまま」を肯定する思想へと、挑戦した潮流があります。

これらの潮流は、ゾクチェン(大円満乗)、後期密教、禅、修験道などで、仏教の奥義と呼ばれることもある思想を展開しました。

ですが、その一方で、現世肯定志向の潮流の中には、私見では、仏教としての一線を越えてしまったものもあると思います。
例えば、天台本覚思想や一部の禅です。
私の捉え方では、煩悩をそのまま肯定するような思想は、非仏教です。


本投稿では、これらの潮流を紹介しながら、比較、考察します。

これらの潮流を「如来蔵思想」の発展形として捉え、「仏性論」の違い、その実践の違いに焦点を当てます。

これらの思想は、どれも「煩悩即涅槃」といった言葉で表現されることもありますが、その意味は、宗派によって異なります。

また、私見によって、仏教と非仏教の境界を定めることにもなります。

かなり専門的で、私は読んだことがない部分にも突っ込みますが、分かりやすく説明しようと思います。
扱う範囲が広いので、批判対象の一部を除いて引用せず、アバウトな説明になります。



如来蔵思想の誕生と仏性論


大乗仏教の特徴的な思想潮流に、如来蔵思想があります。
如来蔵思想は、様々に発展し、仏教の諸派に影響を与えました。

如来蔵思想は、すべての人に仏になる可能性(=如来蔵)が存在しているという主張から始まりました。

如来蔵思想は、大乗仏教でいきなり生まれたものではなく、部派仏教の大衆部系の四部が主張した「心性本浄説」に由来するとされています。

ただ、大乗仏教は、本来、部派教団と別に存在したのではなく、その中に生まれた思想運動、学派として存在したと推測されるので、一方的な影響関係ではないかもしれません。

「心性本浄」の「心性」とは「心の本性」という意味であり、この概念は、唯識派やゾクチェン、中国禅にも継承されていると思います。


「如来蔵」に類似した大乗仏教に独特の概念に「仏性」や「自性清浄心」などがあります。

仏性も、最初は、個々の人間の心に「可能性として存在している」とされ、この考え方を「仏性内在論」と呼ぶこともあります。
ですから、これを修行によって育てていく必要があります。
これは、「蓮華の花を種(もしくは、蓮台)から咲かせる」という比喩で表現されます。

その後、仏性は、「最初から存在している」と考える「仏性顕在論」が生まれました。

ですが、「煩悩によって隠されている」ので、修行によって煩悩を取り除き、仏性を現す必要があります。
これは、「汚れている鏡を磨く」という比喩で良く表現されます。


煩悩は、最初、外から来たもの(客塵煩悩)と考えられました。

ですが、やがて、「煩悩も仏性から生み出されたもの」と考えるようになりました。
密教などの考え方です。
「顕現的相即論」と呼ばれることもあるようです。

ですから、煩悩は、取り除くものではなく、清浄なものに変容させるべきものとなりました。

これは、「汚れを飾りに変える」という比喩で表現できます。

一方で、仏性から生み出されたものだから、煩悩はそのままで良く、修行も必要ないといった、極端な考えも生まれました。
天台本覚思想や、禅の一部でこのような主張がなされました。
ですが、私見では、これはもはや非仏教であると思います。


如来蔵思想の発展


やがて、「仏性顕在論」は、「仏性は煩悩によって隠されていない」という考え方に発展しました。

これは、「何を写しても、鏡自体は透明なままである」という比喩で表現されます。

煩悩はあっても、心は多層的なので、汚されていないまま(無漏)の仏性が常に存在するのです。
南宋禅以降の禅やゾクチェンにこの主張があります。

そのため、煩悩を捨てたり、変容させたりせずとも、仏性に気づけばよいのです。
であれば、一瞬で悟れるという「頓悟」が主張されました。

一般に、真理(空)の認識は、客体に対する「ありのまま」の認識ですが、仏性の気づきは、主体に対する認識であり、「あるがまま」の実践となります。

ですが、仏性への気づきは、仏に至る一つの契機であって、「頓悟」しても、煩悩に由来する(有漏の)心は現れ続けます。
ですから、煩悩を捨て去って仏になるためには修行が必要(斬修)となります。


この「仏性は煩悩によって隠されていない」という思想には、インド哲学からの影響も考えられます。

ヴェーダーンタ学派では「アートマン」が、サーンキヤ学派では「プルシャ」が、人間の心の中にあって、常に解脱の状態にある純粋な観察者であるとされます。

ただ、これらの思想は、現世否定的で、「あるがまま」を肯定するものではありません。
また、「アートマン」や「プルシャ」が実体とされますが、大乗仏教においては、「仏性」は、空、無我であることが前提です。


これに対して、仏性に対する気づきを維持すれば、現れた個々の煩悩性の心は、自然に煩悩のないものに解放されると主張する考え方が生まれました。
ゾクチェンの「自己解脱(自然解脱)」という思想です。

これは、例えば、「自らトグロを解く蛇」や、「海に落ちた雪が即座に解ける」といった比喩で表現されます。

ただ、常に、気づき続けるためには、修行が必要になります。

この思想については、後述します。


一方、これと似ていますが、「仏性に対する気づきがあれば煩悩は現れない」とする考え方が、禅にあるようです。

また、禅の一部には、「意識的(作為的)でなければ煩悩性の心、行動はそのままで良い」と主張する考え方もるようです。

これらについても、後述します。


まとめ

1 仏性は可能性として存在していて、修行によって育てる(仏性内在論)

2 仏性ははじめから存在しているが、煩悩によって隠されている
 (仏性顕在論I)
-A 煩悩は外から来たもので、煩悩を捨てて仏性を現す(客塵煩悩)
-B 煩悩は仏性から生み出されたものなので、清浄なものに変容させる
 (密教)
✕ 煩悩はそのままで仏性の現れなのでそのままで良い(天台本覚思想)

3 仏性は煩悩によって隠されていないが、それに気づいていない
 (仏性顕在論II)
-A 仏性に気づいていれば、煩悩は現れない(禅の真空妙有)
-B 仏性に気づいていれば、煩悩は自然に解放される
 (ゾクチェンの自然解脱)
✕ 作為がなければ、業を作らないので、煩悩はそのままで良い
 (禅の一部)


中観派の後得智


上座部では、実体である「法」を認識することは正しい智慧であり、それを言葉で表現したものも真理(勝義)です。

ですが、大乗仏教では、「法」は実体ではなく、通常の言葉では真理(勝義)を表現できないと考えます。

大乗仏教の中観派は、「等引智(無概念・無イメージの空の認識である無分別智)」を前提にして、言葉を仮説として認める立場である「中」を目指しました。
この智慧は「後得智」と呼ばれます。
言葉の対象を実体として見るのではなく、幻のようなものと見るのです。

修行では、「後得智」を「等引智」に一体化させていくことを目指しますが、この過程は、煩悩を滅していく過程です。

「後得智」としての概念やイメージは、本質を持たず、執着を生みません


上座部では、煩悩である三毒(貪り、怒り、無知)を伴わない行為である限り、悪い業を作ることはありません。

ですが、大乗仏教では、真理を認識していない人が言葉を使うと、三毒を伴わなくても、それが悪影響を与えて(唯識では「名言薫習」と言う)、「所智障(法執)」という潜在的な煩悩を強める業となってしまいます。

「後得智」においては、言葉やイメージは本質を持たないので、この悪影響を生まないのだと思います。


密教の動的象徴(マントラ、マンダラ)


一方、密教では、「マントラ」としての言葉は、真実を表現すると主張します。
また、マントラに限らず、仏の形姿・マンダラとしてイメージも、煩悩のない仏性の清浄な現れです。

ですから、それらを観想(イメージを思い描く)したり、唱えたりすること、あるいは、煩悩性の概念やイメージを作為してそれらに変容させることが修行となります。

密教の基本的な修行法である「本尊ヨガ」は、自身を仏として観想することで仏の意識と一体化する方法で、これが解脱への早道と考えられました。
この方法は、原始仏教から行われてきた「仏随念」を発展させたものと言えます。

密教には、このように、存在論、認識論においても、実践論においても、一種の「象徴主義」があります。

ですが、これら密教の象徴は深層的・変性的な意識で現れる動的な存在であり、ただのイメージの類でも、暗喩や換喩の働きでもありません。

修行で最初に意図的に観想する象徴は、「サンマヤ・サッタ(象徴存在)」と呼ばれますが、観想しているうちに、それは作為なしに勝手に動く「ジュニャーナ・サッタ(智的存在)」になります。
「サンマヤ・サッタ」が仮に分別された存在なら、「ジュニャーナ・サッタ」は煩悩性のない存在でしょう。

修行として意図的に作為しなくても、常に、この清浄で動的なイメージが現れるようになった境地は、「マハー・ムドラー」と呼ばれます。

また、仏性が最初から心に存在するなら、細部を順を追って作為的に観想をせずとも、最初からこの清浄な動的イメージを一挙に現そうとする行法が生まれました。
これは、「アヌ・ヨガ」と呼ばれます。

これらは、密教において「作為性」を越える思想を表現しています。

さらに、密教の「象徴主義」を越えた、あるいは、否定する思想も生まれました。
象徴の観想や、象徴への変容を行わない「アティ・ヨガ」、もしくは、「ゾクチェン」です。


真言宗と修験道の無相の三密


ほとんど語られることはないようですが、真言宗には「無相の三密」という考え方があります。

「有相の三密」は、通常の「三密加持」であり、マンドラ、観想、手印という象徴を使った瞑想修行法です。

これに対して、「無相の三密」は、象徴性を切り詰めて修行を日常化するものです。
具体的には、常に阿字を観じながら日常を過ごすなどして、日常のあらゆる行為を仏性の現れにしようとするものです。

これは、象徴主義や、作為的な修行を超えようとするものです。


また、修験道の柱源法流や慧印法流の奥義でも、「無相の三密」を目指します。

例えば、念誦は、実際に真言を唱えず、呼吸法(修験数息観)とします。
具体的には、呼気を阿字と観じ、吸気を吽字と観じ、自分をバン字と観じ、これを秘密の真言(ア・バン・ウン)とします。

これも、象徴性を切りつめて日常化する修行でしょう。

「無相の三密」の根拠になっているのは、「本有の無作」という考え方です。
これは、最初から存在する仏性を、作為せずに、「あるがまま」に現すということです。


ゾクチェンと禅のあるがまま


如来蔵思想の影響を受けた宗派では、修行も含めたすべての意識的、作為的な行いは、最終的には、捨て去るべきものとする考えに至ります。
「あるがまま(任運、無作為)」を重視する思想です。

ゾクチェンや禅にはこれがありますし、先に書いたアヌ・ヨガ、マハー・ムドラー、修験道にも見つけることができます。

この「あるがまま」の実践は、作為を捨てて無作為になる瞑想修行や、修行の日常化として始められ、最終的に、日常における「無作為の常態化」を目指します。

先に、通常の言葉を使った認識は、「所智障(法執)」という潜在的な煩悩を強める業となってしまうと書きました。
作為的行為は、基本的に、無意識にであれ言葉の判断を伴ったものです。
ですから、作為的行為は、三毒を伴わなくても、この意味で業を生むことになるでしょう。

それゆえ、作為的行為を否定しようとすることには、根拠があります。

ですが、煩悩性の心やそれに由来する行為まで、そのままで認めてしまったり、最初から作為的な修行を否定してしまったりしては、仏教とは言えなくなると思います。


ゾクチェンの自然解脱


ゾクチェンの特徴には、先に書いたように、「自然解脱」、あるいは、「自己解脱」と表現される思想があります。

これは、「仏性(無分別の空なる心の本性)」に対する気づきを維持していることで、煩悩に由来する概念やイメージが現れても、意図せずとも、それが自然に、自発的に、解放されるということです。

単に、瞑想中に雑念に気づけば、それが消えるということではありません。
ゾクチェンには、「雑念」という考えも、「捨てる」という意図もありません。

「仏性」の現れが、現れては変化する、その「あるがまま」の戯れを、制限せずに、ただ楽しむようにするのです。
ですから、ゾクチェンの「あるがまま」は、煩悩が現れるがまま、ということではなく、そこから解放された「なるがまま」です。


私見ですが、煩悩性の分別は、習慣的・社会的な模範への固着、引力がある静的なものです。
ですが、解放された煩悩性のない分別には、それがなく、模範に束縛されず、動的に変容し、執着も生みません。

「自然解脱」と「後得智」は似たところがあります。
いずれも、無分別の「空」の認識を前提にした分別智という側面があります。
ですが、違いもあります。

「後得智」は煩悩をなくしていくことで完成しますが、「自然解脱」は煩悩に由来しても可能です。

「自然解脱」はリアルタイムな仏性への気づきが必要ですが、「後得智」はそうではなくても良いのではないかと思います。
また、「後得智」は、「自然解脱」よりも、かなり複雑で理性的な語りについても含意している印象を持っています。

一方、密教的象徴は、すべての心の現れが、原型的、深層的、連想的な模範との創造的関係を持ちます。
ですが、「自然解脱」には、それらとの関係もありません。


神会の善分別


禅は「不立文字」といって、その教えを理論的に語ることを好みません。
また、同じ宗派の禅師によっても思想が異なりますし、同じ禅師も時によって異なる思想を語っているように思えることもあれば、語録の編者によっても思想が異なることもあると思います。

ですから、本稿のテーマについても、確定的に語ることは困難だと思っていることを前提で書きます。


南宗禅(荷沢宗)の神会は、煩悩を払って仏性を現そうと考えていた従来の禅宗(北宋禅)を批判して、煩悩を払わずとも仏性は現れていると主張しました。
ですから、心を滅するような作為的な座禅修行は必要なく、仏性に気づけば、一瞬で悟れる(頓悟)のだと。

彼の思想は、以降の禅に絶大な影響を与えました。

神会は、無分別の心を「心の本体」と呼び、それが「智」の働きを持っていると主張しました。
それを「自然智」とか「見性」と呼ぶのですが、それは「心の本体」が「智」の働きを持っていること自身を知る「智」なのです。

この考え方は、ゾクチェンが、「心の本体」が「智」を生み出すものであり、そのことを自覚している「明知」を持っていると考えるのと、ほとんど同じです。

彼とその影響を受けた禅は、無分別と分別(体と用、定と慧)の不二一体を主張しました。
神会は、これを「真空妙有」、「定慧等学」などと表現しました。

そして、彼は、「心の本体」の気づきを持った、無分別と一体の分別智を、「善分別」と呼びました。

・無分別:体:定:真空:心の本体
・善分別:用:慧:妙有:自然智
 

また、神会は、「無作を本とす」と言い、「無作為(あるがまま)」を主張しました。
彼は、作為は表層的(唯識派の言う前六識の)行いであり、妄心であるとします。

神会は、「無分別智による分別」という表現も使っているので、「善分別」は「後得智」に類するものでしょう。
ですが、煩悩を滅することを説かず、無作為を説く点で、「自然解脱」に近いのかもしれません。

いずれにせよ、仏性に対する気づきがあれば、煩悩は現れないと考えているようです。


馬祖の作用即性


神会以降の禅の潮流では、「体用不二」は基本となっているのですが、宗派によって、禅師によって、「体」重視と「用」重視の間の揺れ、揺れ戻しが続きました。

馬祖の洪州宗は、日常の行為を仏性の現れとして説く、「用」重視が特徴です。

彼の考えは、「作用即性」という言葉で表現されるのですが、これは「作用(用)」の中に「性(体)」が含まれているという意味合いで使われます。


華厳教学では、「妄分別」が「事法界」、「善分別」が「理事無礙法界」と「事事無礙法界」として理論化されました。
「理」は「無分別(体)」、「事」は「分別(用)」に対応し、「理事無礙」には「体用不二」、「事事無礙」には「用用不二」といった意味合いがあります。

・妄分別 :事法界   :体なき用
・無分別 :理法界   :体
・善分別Ⅰ:理事無礙法界:体用不二
・善分別Ⅱ:事事無礙法界:用用不二

ですから、神会の「真空妙有」の思想は、「理事無礙法界」に近く、馬祖の「作用即性」は「事事無礙法界」に近いでしょう。

ですが、「作用即性」は、「事法界」と紙一重で、そこに落ち込みやすいものとして批判されました。
例えば、荷沢宗の五祖でもあり、華厳宗の第五祖でもある宗密は、洪州宗の「用」は「体」が欠如した単なる迷いでもあると批判しました。
実際に、馬祖には、そのように語ることもありました。(*1)

これでは、「理即事」と説く天台本覚思想と同じで、私見では非仏教になってしまいます。


馬祖や臨済は、次のように、極端に無作為を肯定して語ることもあります。

悟りを求めて修行をすることを含めて、作為的な行為を迷いであり、業を作るけれど、煩悩に由来する行為でも、業に従ってただ行えば、清浄な仏の行為であると。(*2、*3)

前半は神会も主張していますが、後半の主張は神会にないもので、これが字義通りであれば、煩悩をそのまま認めるものになり、私見では、非仏教になります。

「作為/無作為」の問題は、従来の修行道論では「有漏の修行/無漏の修行」の区別となり、煩悩論では「分別起の見惑/任運起の修惑」の区別になるでしょう。

意識的な有漏の修行は、真理(空)を認識する以前の修行の段階では、どうしても必要なものです。
アビダルマ以来、作為的な行為は三毒の煩悩(強い我欲で修行をするなど)がない限り、善行であり善の業になります。

ですから、すべての作為的な行為が業になるからといって否定するのは、現実的ではなく、そのように受け取れる表現をするのは粗雑すぎます。

また、大乗仏教の修行階梯では、後天的な知的な煩悩(分別起の見惑)を絶った後に、先天的で情的な煩悩(任運起の修惑)を絶ちます。
後者は、無意識的、無作為に生まれる煩悩ですが、これも絶つ必要があります。

ですから、すべての無作為な行為を肯定することは非仏教であり、そのように受け止められる表現をするのは粗雑すぎます。


*1「分からないというその心がまさしくそう(仏)なのだ、他にない」(馬祖語録)

*2「道を修めようとする作為、あるいは、道に向かおうとする目的意識、それら一切がすべて汚すことである。もし、道そのものを会得したいなら…作為なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡聖の対立なきものである」(馬祖語録)

*3「本当の修行者なら…縁に随って前生の業を用い…行きたければ行き…仏の完全な悟りなどをほしがることはないのだ」(臨済録)

*追記
妄分別や無分別智に対して、後得智や善分別という概念があるように、作為や無作為に対して、「後得作為」や「善作為」といった概念があっても良いのではないかと思います。


*下記も参照ください。

*仏教の瞑想修行をテーマにしたサイトも参照ください。


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