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妖怪を二元論から解放する2:昇格

「妖怪を二元論から解放する1:零落」の後編に当たる投稿です。

この前編では、「妖怪」や「悪鬼」の類は、「高次対称性」を持っていたアニミズムの「スピリット」が、非対称な二元論的によって抑圧された存在だということを書ました。

本稿では、「妖怪」を解放・昇華したことがある中世インド、日本の歴史と、「妖怪」と後期密教の尊格の関係、「妖怪」を解放・昇華する実践のための「ドリーム・ワーク」の具体的な方法について紹介します。



インド・チベット密教における悪鬼の昇格


インド中世に興った宗教運動のタントリズムは、アウトカースト(インド先住民)のアニミズム的な宗教、特に墓場の魔術的宗教を、仏教やヒンドゥー教が取り込んで生まれました。

これら原住民の宗教の神霊は、仏教やヒンドゥー教からは、「悪鬼」の類と見なされていた存在でした。
これらの神霊は、魔性と豊穣性の両義性を備えていました。

大乗仏教は、各地の神霊を、「護法神」として取り込みましたが、その後、密教、特に後期密教の時代になると、「悪鬼」だった神霊が重視されて、仏教内の尊格のヒエラルキーを上昇していきました。

仏教は、二元論を否定する宗教です。
仏教にも善悪の二元性が存在しますが、二元論を否定するものが善、二元論に陥っているものが悪という、メタレベルの構造があります。

密教では、従来では悪とされたものの中に善、俗とされたものの中に聖を見出しました。
そして、「悪鬼」と見なされていた神霊の中に、「スピリット」として本来持っていた二元論を超えた性質を見出しました。
そして、それを仏教の教義によって昇華させました。

つまり、「悪鬼」を、二元論を越えた悟りへ導く智恵を持つ存在として捉え直し、「智恵の尊格」に変容させたのです。

こうして、最下層の悪鬼的存在に貶められていた元「スピリット」の中には、最終的には、「本初仏」や、本尊の化身としての「守護尊」といった最高レベルのヒエラルキーの尊格、つまり、「根源の尊格」にまで昇格するものが生まれました。


例えば、ダキニは、もともとは原住民の女神でしたが、人間の死肉を喰う「悪鬼」の類とみなされるようになっていました。
ですが、後期密教では、ヒンドゥー・タントリズムのシャクティに相当する存在、つまり、根源的で動的な女性原理に普遍化され、高められました。

広義のダキニ(明妃)であるヴァジュラ・バーラーヒー(金剛亥母)は、もとは「阿修羅」でしたが、そのスピリット的な猪豚の姿形を残したまま、最高レベルの女尊である「守護女尊」になりました。

ヴァジュラヴァーラーヒ

また、チベットでは、ダキニは、自我や言葉の煩悩から開放する「智恵」の守護者として重視されるようになりました。

前編で紹介したエカジャティ(一元論の象徴である重要な守護女尊)も、その怖ろしい異形性からして、おそらく地元の「悪鬼」の類だったのではないかと思います。

彼女らは、もともと大地的な創造力を特長としましたが、これが「空」の智慧が本来持つ創造力に高められたのです。

また、もとは「夜叉」の王だった執金剛神は、仏の護衛役の「護法神」になり、さらには、金剛手という菩薩に出世し、さらには、金剛薩埵を経て持金剛という根源的な仏である「本初仏」にまで昇格しました。

彼らはもともと武力を特長としていましたが、これが「空」の智慧が持つ二元論的な煩悩を破壊する力に高められたのです。

金剛手

これら後期密教の「忿怒の護法神」や「守護尊」は、仏のパンテオンに組みこまれても、「妖怪」や「悪鬼」の時よりも、恐ろしく、妖しく、異形の姿です。


グレート・スピリット、高神、守護尊


アニミズムの神霊には「スピリット」だけではなく、「グレート・スピリット」という特別なスピリットも存在します。

「スピリット」は人格を持った多数の個性のある存在であるのに対して、「グレート・スピリット」は一つの、人格のない、抽象的な存在です。

中沢新一の表現では、「スピリット」が他界との境界を出入りする存在であるのに対して、「グレート・スピリット」は他界の存在そのものです。
つまり、「スピリット」の根源であり、「高次元性」の根源です。
同時に、「グレート・スピリット」は、すべてに宿る存在でもあります。

ですが、「グレート・スピリット」は「スピリット」の一つであって、「スピリット」と分離されたものではありません。
仏教的に言えば、一即多、多即一の関係であり、「グレート・スピリット」が化身したのが「スピリット」と考えることもできます。


ですが、国家段階の多神教になった時、両者は異なる神になりました。

「スピリット」は、水平的方向からやってくる「来訪神」の類の「神々」となりました。
彼らは、豊穣を特徴とします。

一方の「グレート・スピリット」は、垂直的な高所にいる唯一の「高神(ハイ・ゴッド、民族学者ヴィルヘルム・シュミットによる)」になりました。
彼は、秩序や倫理を司ります。

沖縄で言えば、前者は男性の結社が担い、ニライカナイからやってくる仮面の神々、後者は女性のノロが御嶽(ウタキ)で祀る神です。


また、前編で書いたように、「スピリット」には、「神々」になれずに「妖怪」になった者もいます。
「妖怪」は、キリスト教では「悪魔」となり、仏教では「阿修羅」や「夜叉」になりました。

ですから、「スピリット」は、「妖怪」と「神々(来訪神)」に分離・限定されたとともに、「グレート・スピリット(高神)」とも分離されたのです。

逆に考えると、「妖怪」をそれと表裏になる「神々」と一体化させると、「スピリット」に戻ると考えることができます。
そうすると、「グレート・スピリット」との分離もなくなります。


中沢新一によれば、「スピリット」が高次対称性を持っていたのに対して、「来訪神」は低次対称性を持ち、「高神」は対称性を持ちません。

前稿で書いたように、私は、「妖怪」は「スピリット」より低い対称性しか持たないと思っています。

(神霊)        (対称性)
・グレート・スピリット:高次対称の根源
・スピリット     :高次対称
・妖怪        :中次対称
・来訪神(神々)   :低次対称
・高神        :非対称

「妖怪」を「スピリット」に戻すのは、言葉の次元で「対称性」を持たせることではなく、そのイメージの運動自体に「高次元性」を持たせることです。

密教における尊格も「高次元性」を持っていますし、大乗仏教の空の教義は、「対称性」に類似した論理を持っています。

「空」を教義とする密教では、尊格の姿形は、「仮」のものでしかありません。
瞑想の時も、尊格の姿形は、虚空から立ち上げ、そこに消滅させますし、その姿形は輝きながら揺らめくものにします。
つまり、瞑想のイメージに「高次元性」を持たせるのです。


仏教の「護法神」には、「悪鬼」由来の者もいれば、「神々」由来の者もいます。
「悪鬼」が昇格した「護法神」は、「悪鬼」と「神々」が統合された存在で、「スピリット」のように「高次元性」を増したのだと考えることができます。

「智恵の尊格」となった「ダキニ(明妃)」や「明王」は、「スピリット」が持っていた高次対称性を取り戻し、そこに非二元的な空の智慧を持たせた尊格です。

また、後期密教の「守護尊」は、仏が忿怒尊へ化身した尊格なので、仏と同体です。
単なる「護法神」とは違って、完全に二元性を捨てた存在です。

ですから、「根源の尊格」となった「守護尊」は、「グレート・スピリット」と「スピリット」との分離が取り戻された尊格であり、「グレート・スピリット」が持っていた抽象性にまで到達した尊格であると考えることができます。

(アニミズム)(多神教)(一神教)(仏教) (後期密教)
・グレート・スピリット →高神  →唯一神 →仏   →本初仏(守護尊)
・スピリット  →来訪神 →天使  →天部  →明王・ダキニ
        →妖怪  →悪魔  →阿修羅 → ↑


日本の中世における神の昇格


日本の中世でも、一部にインドの後期密教と似た宗教運動が起こりましたた。

日本に伝来したダキニ(荼枳尼天)は、当初はインドでと同様に、死体を喰う「悪鬼」でした。
ですが、稲荷信仰の宇賀神(蛇体の宇賀弁才天)と習合し、霊狐に乗った天女の姿でも描かれるようになりました。
そして、天照大御神の変化身とされ、天皇の即位潅頂の隠れた本尊にまで昇格しました。

また、日本では、中部地方を中心に、縄文以来のスピリット的神霊である「シャグジ(ミシャグジ)」が信仰されてきました。
日本の中世で幅広く信仰を集めた「荒神」や、被差別民・芸能の神「宿神(シュクシン)」は、この「シャグジ」を出自とする神、あるいは、「シャグジ」と習合した神でしょう。

これらの神々は、かつては重要な存在でしたが、記紀神話では無視され、低級な神と考えられるようになった存在です。

仏教の文脈では、「荒神(三宝荒神)」は、「悪鬼」の類の疫病神から「護法神」になった忿怒尊で、煩悩を浄化する尊格です。
それが、「荒神縁起」では「根源神」にまで高められました。

三宝荒神

一方の「宿神」も、猿楽師の金春禅竹が、「荒神」と同体であり、万物の「根源神」であると考えました。

このように、日本の中世でも、「スピリット」由来で、「悪鬼」や低級とされた神霊が、様々な神格と複雑に習合しながら、「根源神」にまで高められることがあったのです。


妖怪を開放して高めるために使える方法


先に書いたように、単純化していうと、「スピリット」が非対称な二元論によって抑圧された存在が「妖怪」です。

ですから、自分の心の中で、「妖怪」を自由で開放された「スピリット」に戻し、そこから智恵や能力を得ることができます。

一般化して言えば、抑圧されたイメージや象徴の力を、解放して発展させる方法を使うのです。

具体的には、ユージン・ジェンドリンのフォーカシング心理療法や、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理療法などが使う、「ドリーム・ワーク」と呼ばれる方法です。

これはシャーマニズムに由来する伝統で「夢見」、西洋魔術で「スクライング」などと呼ばれてきた方法をもとにしている部分もあるので、これらの方法を利用することもできます。


「夢見」というのは、意識的な自我のコントロールを弱めて、半ば無意識に主導権を与えた状態で、夢のようにイメージを自然に動かしたり、言葉や会話を生み出したりする方法です。

必ずしも、完全に「夢」の状態に入る必要はなく、白昼夢を見るような形でも行えます。

「ドリーム・ワーク」の方法の一つに、夜見た夢の核心的な部分、そのフィーリングに集中して、それを発展させる方法があります。
ですが、「ドリーム・ワーク」の対象は、実際に見た夢である必要はなく、どんなイメージ、フィーリングでも構いません。

ジェンドリンやミンデルの方法の特徴は、具体的な姿になったイメージではなく、雰囲気やフィーリング、さらには、その直観的なエッセンスに集中することです。
そして、そこから自然にイメージや言葉、物語を生み出します。

「ドリーム・ワーク」を利用すれば、「妖怪」を夢の中の存在のように扱って、夢として発展させながら、「妖怪」自身のあり方を自然に変容させることができます。


ミンデルは、1)合意的現実の次元と、2)夢やフィーリングの次元と、3)意味のエッセンスの次元を区別します。

これは、アニミズムの「スピリット」で言えば、それぞれは、「対称的思考(野生の思考)」の言葉の要素となった次元、イメージの運動としての次元、そして、抽象的な運動そのものとしての「グレート・スピリット」に対応するでしょう。

先に書いた、後期密教で言えば、2)と3)は、「智恵の尊格」、「根源の尊格」に対するでしょう。
1)は、あえて言えば、「空」の哲学でしょうか。

(プロセス指向心理学)(アニミズム)      (後期密教)
1)意味のエッセンス :グレート・スピリット   :根源の尊格
2)夢・フィーリング :イメージの運動としてのスピリット :智恵の尊格
3)合意的現実    :対称的思考内のスピリット   :空の哲学


シャーマニズムや西洋魔術でも、夢見の技術を使いますが、対象の客観性が重視されるので、その存在の変容については、ほとんど語られません。

ですが、どちらも、夢の次元に入って対象と対面するための様々な方法、ノウハウを持っているので、それらを利用することは有効です。


その具体的な方法


以下、フォーカシングや、プロセス指向心理療法の「プロセス・ワーク」を参考にして、いくらか具体的な方法を書きます。

簡単に言うと、「妖怪」のイメージやフィーリングに集中し、夢見の中で「妖怪」と出会って親しくなり、会話するなどを繰り返して、そのイメージが変化、成長し、物語が展開するままにします。

具体的な方法としては、次のようなものです。

まず、対称にする「妖怪」を選びます。
そして、その「妖怪」の姿や行動などについて、いろいろとイメージをしてみます。

そして、夢見の状態に入りますが、これには多くの方法があります。

普通の人に一番簡単なのは、目をつぶって、「白昼夢」を見るようにして「妖怪」と対面することです。
簡単ではありませんが、無意識が自然に物語を創造する意識の状態になることが必要です。

これは、音楽なら即興演奏するようなものです。
音楽でなくても、アーティストや作家が作品を創造する時には類似した意識の状態を利用していると思います。
何かを創造する時には、そういう意識の状態になるはずです。

また、実際に、夜に寝て夢を見る方法でも可能です。
寝る前に、その妖怪をイメージしてから寝て、できれば明晰夢、つまり、夢の中で夢であると自覚して、夢を半ば誘導します。


どちらにせよ、夢見では、一度で、大きな変化が起こることはありません。
長期的に構えて、夢の内容、「妖怪」の姿や自分との関係が少しずつ変わっていくようにします。

ジェンドリンの夢の理論によれば、抑圧しているものは、最初は、敵対的、非人間的イメージで現れます。
ですが、それと交流し、向かい合うようになるうちに、徐々に、友好的、人間的なイメージに変化していきます。

「妖怪」も二元論的枠組から自分の心を解放すると、それらは、肯定的で人間的な側面も見せるようになるでしょう。

「妖怪」を「スピリット」に戻すだけでなく、「根源神」のような存在に高めるためには、その「妖怪」が持つ創造性のエッセンスの部分に集中し、具体的・個別的な部分を脱皮させる必要があります。
そのエッセンスの次元が、「根源神」の本質です。


長期的に夢見を行うなら、決まった道程を習慣づける方法は役立ちます。
ネオ・シャーマニズムや西洋魔術では、自室→夢の中の想像上の出発点→目的地という道程を決めています。

それを応用するなら、例えば、自宅の裏口から出て人影の少ない方に行く、階段を地下へ降りてそのさきの扉を開いて目的の世界に入る、トンネルを抜けて目的の世界に入る…といった道程を決めて、毎回、その想像から始めるのです。

西洋魔術では、目的の世界に入る道程、その世界の大まかな描写、対象の存在との出会い、などの物語の大枠を、録音テープに吹き込んでおいて、それを聞きながら夢見をするという方法を使います。


どのような方法を使うにせよ、先に書いたように、「妖怪」の姿形や具体的な特徴にばかり注意を向けずに、「妖怪」の漠然とした感覚、フィーリングや、エッセンスを十分に感じることが必要です。

具体的なレベルから本質的なレベルに遡り、それが変容するのを待ち、そこから具体的なレベルを再び生み出します。

そして、「妖怪」に語りかけて対話をします。
対話の内容としては、例えば、誰なのか、どこからきたのか、何をしたいのか、どうなりたいのか、何を言いたいのか、私に何をしてほしいのか、を聞くなどです。
また、アドバイスやプレゼントをもらうことも重要です。


また、その「妖怪」に対する否定的感情を薄めて、受容的な態度で向き合うことが必要です。
自分がその「妖怪」が象徴するものを避けてきたのではないかと考え、その理由を考えます。

また、「妖怪」が、変わろうとしている部分、方向に注目し、それを発展させることも有効です。

立場を交換して、相手になって自分を見てみるといった想像も役立ちます。
自分が、自分の自我の外に出ることが必要です。
自分自身が変化しないと、相手も変わりません。

チベット密教では、悪鬼の類に、細切れにして煮た自分の体を与えるというチュウの瞑想的儀礼を行って、悪鬼の類を浄化して本来の姿に戻します。

このように、対面した妖怪に、自分の大切なものを与えると良いかもしれません。
この時、自分の欲を捨てることが必要です。

また、少し難しい方法ですが、西洋魔術で、「試験用トークン」と呼ばれる方法を利用することもできます。
これは、現れた存在が、特定の偏りを持っているかどうかを試すもので、その原因を分類して手のポーズなどの合図に結びつけておきます。

例えば、「妖怪」が邪悪さを持ちすぎていないかを試すなら指一本を示す、攻撃的すぎないかを試すなら指二本を示す、過度な異形の姿になっていないかを試すなら指三本を示す、といった具合です。
このトークンのルールを無意識に訓練付けていると、これが対面するイメージに対して自然に発動して、相手を変容させることもできます。


本稿では、「ドリーム・ワーク」の方法を使って、自然に変容させる方法を紹介しましたが、頭脳派の人なら、「ドリーム・ワーク」を使わず、瞑想的な方法を使うこともできます。
「妖怪」を変容させる目標像を理論的に考えて、その像を瞑想して無意識に送ることで、無意識の「妖怪」のイメージを意図的に変容させるのです。

目標像は、「妖怪」の否定的な特徴の中にある肯定的な可能性を考えることで作れます。
例えば、臆病さの中には慎重さがありますし、攻撃性の中には問題解決への突破力がありますし、邪悪さの中には常識を破る力がある、といった具合です。

あるいは、この目標像をイメージすることから始めて、それが自動的に動く、変容するような夢見の状態に入ることもできます。
これは、密教も、西洋魔術でも使う方法です。


*参考書

・森雅秀「インド密教の仏たち」(春秋社)
・田中公明「チベットの仏たち」(方丈堂出版)
・中沢新一「精霊の王」(講談社)
・藤巻一保「日本秘教全書」(GAKKEN)

・フォーカシングとプロセス指向心理学、中世日本の神格については、下記WEBページを参照ください。


*タイトル画像は、松竹映画「妖怪大戦争」のプロモーション・フォトより



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