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妖怪を二元論から解放する1:零落

前の投稿「荒ぶる神の変容と解放」は、映画「ゴジラ-1.0」が流行っているという話題から始めましたが、今回の投稿は、映画「鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎」が評判だという話題から始めます。

「妖怪」は、現代でも、エンターテインメント作品の中では、「怪獣」以上に人気の定番テーマとして生きています。 

「ゴジラ-1.0」には、怨霊の怪物化=神化というテーマがあったとすると、「鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎」には、怨霊の妖怪化=神化というテーマがあります。

前稿は「荒ぶる神」の両義性と解放をテーマとしましたが、当稿は「妖怪」の中に潜在する両義性の解放がテーマです。

概要を書けば、「妖怪」は、両義的だったアニミズムの「スピリット」が、二元論的に抑圧された存在なので、夢見のような想像力を使って、それを解放して元に戻し、さらには、二元論を乗り越える「知恵の神」や「根源の神」へと高めようという趣旨です。

まず、「妖怪」に関する、かなり抽象的な理論モデルでの議論をします。
また、その解放・昇華は、歴史上、中世に行われていることも紹介します。
最後に、個々人が行える、具体的な方法を紹介します。

かなり長くて、難解なところもある投稿になります。


もう少し、詳しく説明します。

人間の文化・信仰は、遊動狩猟・採集文化のアニミズムに始まり、定住革命、農業革命、王国革命、一神教革命などを経て、変化してきました。

アニミズムでは、人間に対して中立的・両義的な自然の諸力などを人格化して、「スピリット(精霊)」として捉えて、それを尊重してきました。

宗教学者の中沢新一は、「スピリット」を「高次対称性」を持った存在であると表現しています。(「対称性人類学」、「神の発明」)
「スピリット」は、理性が論理的に二元論で捉えるような単純な存在ではないという意味です。

*中沢の「高次対称性」という表現には、いくつかの背景、影響があります。

精神分析学者マテ・ブランコは、無意識の思考やその対象が「高次対称性」を持っている考えました。
例えば、論理的には「人間」は「動物」ですが、「動物」は「人間」だとは言えないので、この二項は非対称的です。
ですが、無意識はこのような思考をし、分裂症患者にはそれが現れます。
ブランコは、この「対称的無意識」が、「高次元」の構造を持っていて、それが非対称な思考に翻訳される時に、3次元的になると考えました。
ですから、例えば、「対称的無意識」が思考する「天使」は「高次元」存在なのです。

また、人類学者のレヴィ・ストロースは、神話の論理は二項を単純に対立させないと分析しました。
中沢の説明では、例えば、狩る側の「人間」と狩られる側の「山羊」は、通常の日常世界では区別されて「非対称」ですが、神話世界では、山羊人間がいたりして、人間と山羊は同質で「対称」な存在になります。
二項の択一ではなく、様々な合成がなされるという点で「高次元」です。

また、現代物理学によれば、宇宙は高温状態から温度が下がると、対称性をなくしていきます。
これを受けて中沢は、「高次対称性」を「固定することができない状態」とも書いています。

ところが、大雑把に言って、定住、農業の開始を経て、国家的な宗教とその多神教の神々が成立する頃には、かつて「スピリット」として捉えられたであろう存在が大きく変質してしまいました。
「スピリット」の一部は「神々」とされましたが、多くは、「神々」と価値的に非対称な二元論的な考えのもとで、「妖怪」や「悪鬼」の類に貶められました。

一神教が生まれると、さらに抽象的な善悪二元論が強化されて、「スピリット」や「妖怪」は「悪魔」、あるいは、その配下の眷属とされるようになりました。

これによって、人間が両義的な自然の諸力を正しく理解することができなくなり、それに対応する心の能力を発展させることもできなくなったと思います。


ところが、中世に、インド・チベットの密教や日本の一部では、このように貶められた「悪鬼」が、二元論を超えた「智恵の尊格」、あるいは、「根源の尊格」として見直されるという、大変興味深い一種の反宗教革命が起こりました。

本来「スピリット」が持っていた「高次対称性」が取り戻されただけではなく、その純粋性が極限まで高められたのです。


ですが、現在でも、信じているかどうかに関わらず、我々の心には、二元論に閉じ込められた「妖怪」や「悪鬼」のイメージが深く刻まれたままに残っています。
それらは、そのままにしておくべきではなく、解放、昇華すべきだと思います。

我々の心から二元論的な観念を追い払って、想像力を使うと、実際に我々の心の中で、「妖怪」は自然に変化し、本来の「スピリット」が持っていた創造性を取り戻し、それらから様々な智恵や力を得ることができるようなります。

具体的には、シャーマニズムの伝統で「夢見」、西洋魔術の伝統で「スクライング」などと呼ばれてきた方法を応用した、心理療法の「ドリーム・ワーク」の方法を使います。 

「妖怪」は、意識や理性、社会性の外側に由来するものであるところが魅力の本質ですが、「裏」の世界に留まる存在です。
それは、表の世界を揺さぶると同時に、それを前提し、補完してしまうものであって、そこが一般の人の「妖怪」に対する想像力の限界となります。
「妖怪」を解放することは、この想像力の限界を打ち破って、表裏の構造自体を捨てることです。


この前編では、「スピリット」とはどういうものか、そして、どのように「妖怪」に抑圧されたかについて書ます。

後編では、「妖怪」が解放された中世の宗教の歴史、「妖怪」と後期密教の尊格の関係、ドリーム・ワークの実践について書きます。




導入として:現代の妖怪


本題に入る前にすこし雑談です。

現代日本では、「妖怪」に出会ったという話を聞くことは、ほぼ、ありません。
つまり、リアルな日常的な民俗としては「妖怪」は、ほぼ死んでいます。

ですが、その代わりに、エンターテイメント作品の中では、メディア・ミックスな形で、以前にも増して「妖怪」の類は生きています。
「ゲゲゲの鬼太郎」は断続的に放送され続けていますし、「妖怪ウォッチ」のような子供向けのものから、「呪術廻戦」のような比較的大人向けのものまでが、日本だけでなく、海外にも輸出されて、人気です。

これは、現代の理性が、「妖怪」の実在を許さないものの、「妖怪」のような存在を感じ、想像することは認めているということでしょう。

現代のエンターテインメントにおける「妖怪」は、水木しげるに端を発します。
彼は、民俗学者の柳田国男の「妖怪談義」に記された民俗学の伝承に姿形を与える一方、江戸時代の画家の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれた化け物に物語を与えて、「妖怪」を再創造しました。

現代の妖怪学の権威である小松和彦は、妖怪の領域を、下記にように分類しています。

1)現象としての妖怪
2)存在としての妖怪
3)造形としての妖怪

ちなみに、世の「妖怪学」では、「理解できない現象」を妖怪の最初に置きますが、私は「妖しい雰囲気」が最初にあると思っています。

水木は、「妖怪」は怪獣のように新しく創作されるべきものではないと書いていますが、実際には、彼は、様々な創造をしています。
2)から3)を創造するだけではなく、1)から2)、3)を創造したり、まったく新しく2)、3)を創造したりもしています。

遡れば、鳥山石燕も似たような再創造をしています。

水木以降も、作家が新しく「妖怪」を創造することは、当たり前になっています。


そんな中で、個人的に興味深く思っている作品があります。

水木は、「妖怪」の中には、アニミズムの時代からのものもいると書いていますが、それ「以前」の姿に遡るような作品もあります。

マンガ・アニメ「蟲師」が扱う「蟲」は、人格を持たない生物と物質の中間のような存在で、自然に人格的な「魂」を見る「アニミズム」ではなく、それ以前に、自然に「力」を見る「マナイズム」の表現のように思えます。

「蟲」は、「スピリット」が生まれてくる根源にある存在とも考えることができます。


また、ほとんどの妖怪ものは、人間に害をなす「妖怪」を「祓う」ことをテーマとしていて、「妖怪」は敵であるか、味方(使役される存在)であるかのどちらかです。

ですが、マンガ・アニメ「夏目友人帳」は、「妖怪」にその「名」を返して、使役可能な関係から解放していく物語です。

これは、「妖怪」を言葉の秩序から離し、人間や意識との関係からニュートラルな存在に戻す行為のようでもあります。

この2作は、本稿のテーマとも関係します。


スピリット、神、妖怪


柳田国男は、妖怪を「神の零落したもの」と考えました。
川の神がカッパになり、山の神が山姥になった、といった具合に。

ですが、小松和彦は、この説を批判しました。
確かに、個々の妖怪では当てはまらないものがあり、「妖怪」の定義として不適当でしょう。

小松は、歴史的観点ではなく、構造的観点から、超自然的存在が人間にとってプラス価を帯びると「神」になり、マイナス価を帯びると祀られない「妖怪」になると考えました。

ですが、時代の変化とともに変わる宗教的観念の推移に関して、理論的モデルとして「妖怪」の前時代的形態を考えることは、意味があると思います。

中沢新一は、「妖怪」や「神」などを、歴史上の起源としてのアニミズムの「スピリット」から考えています。

中沢は、著書「神の発明」で、国家段階の多神教が生まれた時、「スピリット」だった存在が「神々」に変わったと書いています。
「スピリット」は「高次対称性」持っていたのに対して、「神々」は「低次対称性」しか持ちません。

さらには、この時、「神々」になることから外された得体のしれない「スピリット」が、「妖怪」や「化け物」となったと書いています。

「魑魅魍魎」とは、この自然の諸霊である「スピリット」が妖怪化したものの総称でしょう。

この理論モデルは、総体としての「妖怪」が、多くの人にどのような意味を持つ存在として受け止められてきたのかについての、心理的、宗教的な理論です。
個々の「妖怪」が、どのようにして生まれたのか、誰によって作られたのかといった問題ではありません。
また、すべての「妖怪」と呼ばれるものに当てはまるものではありません。


中沢は、小松も評価する論文「妖怪画と博物学」で、江戸時代の「妖怪」を取り上げて、「意識の自然と理性の境界面上に現れる」存在であると書ました。

また、「神の発明」では、アニミズムの「スピリット」を、「薄暗い密閉された空間から出入りする」、「思考と思考でないものとの「中間的」な存在」であると書ました。

両者が表現しているものは、ほとんど同じです。
中沢は、「スピリット」と「妖怪」の本質を違うものとして区別せずに、「妖怪」を「残余のスピリット」と表現しています。

ですが、「妖怪」は「神々」と価値的に非対称な二元論で位置づけられていて、人の認知の枠組みがそう変わっているので、「スピリット」に比べて、その「高次対称性」が制限されているはずです。

・スピリット :高次対称
  ↓
・妖怪    :中次対称
・神々    :低次対称

私の表現では、「妖怪」は「スピリット」が二元論的に抑圧された存在なのです。

個々の「スピリット」が「妖怪」になったということではなくて、かつてなら「スピリット」として認識されたものが、「妖怪」というより不自由な枠組で認識されるようになった、ということです。


アニミズムのスピリットとは


私は、アニミズムは、人間が最も長い時間を生きた原初的な宗教的世界観なので、人間の心の構造が正直に反映されていると思っています。

現代の人間の心にも、無意識ではアニミズムが生きています。

アニミズムでは、霊魂があらゆる自然に宿ると考えます。
自然に宿る霊魂は、自然の諸力の表現であり、一般に「スピリット(精霊)」と呼ばれます。

「スピリット」は、自然の具体的な存在や、それに所属するる霊ではなく、それに宿りつつも、それを越えて働く、無形で固定化されない力です。

総体としての「スピリット」は、人間に対して中立な存在であり、善悪を決められない両義的な存在です。
個々で、相対的に良い「スピリット」、悪い「スピリット」はいますが、時には人に利益を与え、時には害悪を与えます。

「スピリット」は敬意を払うべき存在であり、彼らを怒らせるようなことをすると、害を受けたり、彼らがいなくなって自然の幸がなくなることがあります。

「スピリット」は、他界と現実世界を出入りする存在であり、定まった形や言葉の表現で捉えられないという意味でも、高次元存在です。

日本の古代の信仰の、国家ができる前の神の実態は、「スピリット」に近く、「カミ」と表記すべき存在です。
古代の言葉では、「タマ」や「チ」が「スピリット」に近い言葉でしょう。

国家段階以降の「神」は、「スピリット」の非二元的な高次元性を失なっていきます。
それでも、「神」に「和魂」と「荒魂」の二側面があるとされたのは、アニミズム的な側面を少し残していたからでしょう。

「モノ」も、かつては「スピリット」に近い言葉でしたが、徐々に「神」と二元的に区別される言葉になって、「魔物」や「物の怪」、「化け物」に至ったように思えます。

映画「もののけ姫」より、スピリット的な木霊
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より、妖怪「木魅(こだま)」


「スピリット」の本来の住処は、「見えない世界」です。

意識の根底に無意識があるように、「見える世界」の根底に「見えない世界」があります。
日本では、根源の世界なので「根の国」、「床世(トコヨ)」と呼ばれ、永遠の世界なので「常世(トコヨ)」と呼ばれます。

この「見えない世界」は、創造力に溢れた、「創造する世界」です。
なんらかの力、生命力を持たないものには、「スピリット」を感じることはありません。

それに対して、「見える世界」は、「見えない世界」を限定した世界です。
日本では、静止画に写した世界なので「現し世(うつしよ)」と呼ばれます。

「見える世界」が、形のはっきりした、言葉で表せる世界であるのに対して、「見えない世界」は、本来、形のない世界であり、言葉で表せない世界です。

ですから、「スピリット」の本質、根源は、目に見えない、抽象的で流動変化するような力です。
それは、本来は、力や直感、雰囲気としてしか感じられない存在で、人格やイメージ(形姿)を超えて動く力です。

ですが、時として、人間の無意識は、それを人格やイメージを持った存在として見ます。
人格やイメージを持った存在が人、間の心(無意識)にとって、最も親しみやすく、理解しやすいからです。

京極夏彦が「妖怪」の条件として「キャラクター」を考えますが、これは「スピリット」の特徴を受け継いでいます。

「スピリット」は、言葉やイメージの次元に入ると、マテ・ブランコが言うところの「対称的思考」、レヴィ・ストロースが言うところの「野生の思考(神話論理)」の要素になります。

ですが、先に書いたように、「スピリット」の本質には、雰囲気や直感としてだけ感じられる次元や、そこからの現実を超えたイメージの生成・変化の次元があって、そこが「高次元」の根源です。


「スピリット」として人格化された自然の諸力は、象徴的なイメージを媒体とするので、自然の諸力に対応する人間の無意識的な働きについても対象化し、それを成長させることにもつながります。

例えば、「水のスピリット」を見て、それを感じることは、自分の中の、柔軟に変化する能力を伸ばすことができるようになる、というった具合です。
「火のスピリット」なら、情熱的に目的達成に至ろうとする意志の能力や、身についた否定的なものを打ち破る能力とか。

単なる言葉ではなく、「高次元性」をもった象徴的存在は、こういった創造力を持ちます。

心理療法の「ドリーム・ワーム」や、魔術、夢見術は、象徴の持つこの能力を利用する技術体系です。


人間の中の自然の妖怪


小松和彦によれば、存在としての妖怪には、1)自然由来の妖怪、2)道具由来の妖怪(付喪神の類)、3)人間(否定的感情や死霊など)由来の妖怪がいて、時代を経るごとに後者の割合が増えてきました。

1)自然(動物や虫を含む)由来の妖怪
2)道具由来の妖怪(付喪神など)
3)人間(否定的感情や死霊など)由来の妖怪

本稿では、主に「自然由来の妖怪」を想定していて、「妖怪」が「自然」の諸力の表現である「スピリット」が抑圧され、否定的に限定されたものであると書いてきました。

「人間由来の妖怪」、「道具由来の妖怪」は、「スピリット」の抑圧とは言えません。
ですが、これらについても、「自然由来の妖怪」と同様に、「人間の中の自然」の抑圧であると考えることができると思います。


「人間の中の自然」というのは、人間の中にある、意識や言語、社会的な秩序に収まらない、制御できない無意識的なもの、身体的なものです。

「人間由来の妖怪」は、人や社会に害を与えるような、感情や情動などを、「妖怪」として想像したものだと思います。
つまり、意識や社会から見れば、異形な心身が、異形な身体を持つ「妖怪」として表現されたのです。

獣や虫のような体の「妖怪」も、「人間の中の自然」の異形性の表現であることもあると思います。

「自然」の表現である「スピリット」が、二元論の否定面に限定されたのが「自然由来の妖怪」であるのと同様に、「人間の中の自然」が否定面に限定されたのが「人間由来の妖怪」であるということです。

恨み、恐れ、嫉妬、妬み、悲しみといった人に害を与えやすい負の感情の妖怪化は、多くの例があります。
死霊が怨霊化して「妖怪」とみなされるようになる場合もあります。

他にも例えば、首が伸びる「ろくろ首」は、性的感情の異形性を表現する「妖怪」として受け止められていたのではないかと思います。
首フェチという言葉があるように、首は性的な部位であり、また、「ろくろ首」は遊女や芸者として現れることがあります。
「ろくろ首」には、頭が体から抜けるタイプもいますが、これは脱魂(エクスタシー)を連想させるもので、性ともつながります。

感情などの異形性に由来するのではなく、逆のパタンとして、異人(村の外の人間)や、身体の奇形・異形をきっかけとして、そこに感情などの異形性が投影されて「妖怪」が想像されたこともあるでしょう。
前者は、柳田国男が「遠野物語」で考えたことでもあります。


「道具由来の妖怪」についても、同様に考えることができるでしょう。

「道具由来の妖怪」である「付喪神」は、長年使われることで妖怪化します。
長年使われた道具は、人間の記憶の中で、様々な感情や能力と結びつきながら、古びて壊れ、人間の生活空間の外に捨てられます。
ですから、感情や能力の異形性が投影されるのです。

道具を人間の体と見立てると、そこに身体の異形性を感じますし、壊れていくと、さらにそれは強まります。
ですから、感情などの異形性がそこに投影されます。


また、「現象としての妖怪」についても、同様に考えることができる場合もあると思います。

「ぬりかべ」は、もともとは、夜道を歩いていて先に進めないという怪異現象の伝承です。
その原因を妖怪という存在にして、姿を描いたのは水木しげるです。

「ぬりかべ」は、心理的には、何かを前に進めることを止める障害であり、何かをしたくない、認めたくない心情や、勇気のなさなどの表現として受け止められるでしょう。

その心情は、意識にとっては、認めたくない、抑圧された、無意識的なものです。


このように、「人間由来の妖怪」も「道具由来の妖怪」も、場合によっては「現象としての妖怪」も、「人間の中の自然」の否定面の抑圧によって生まれた存在と考えることができます。

ですから、それらを、肯定面も含んだ、ニュートラルで両義的な存在へと、つまり、「スピリット」と同様の「高次対称性」を持った存在へと変容させることが可能なはずです。


異形なものの両義性


「妖怪」は、何らかの異形な身体を持っていたり、あるいは、なんらかの特異な行動を特徴とします。
ですから、「妖怪」には、その特徴に関わる、感情や能力の異形性を投影されている、と解釈できます。
また、その否定面に隠れている肯定面を指摘することもできます。

このパラグラフでは、本稿の「二元論を超える」というテーマ自体と直結するような、分かりやすい、身体の異形性の特徴を取り上げて、その中にある両義性を考えてみましょう。


まず、「一」の異形性です。

「一つ目小僧」の一つ目、「唐傘小僧」の一つ目・一本足など、妖怪には「二つ」あるはずのものが「一つ」しかない者がいます。
これらの妖怪においては「一」は奇妙なものとして、否定的に捉えられています。

一つ目小僧
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「青坊主」

ですが、「一」の異形性は、プラスの意味を持つ場合もあります。

例えば、西洋のユニコーン(一角獣)は、一種のモンスターで、獰猛な性質を持っています。
ですが、その角には解毒作用があるとされ、聖獣と見なされています。
ユニコーンの一角は、「統一」の象徴として受け止められているようです。

チベット仏教の守護女尊であるエカジャティは、「一つの髪の結び目」という意味の名を持つ尊格で、一つの牙のような歯を持ちます。
また、第三の目(二つの目は閉じている)、第三の乳房(大きく中央にある)を持ちますが、これらも「二」を統一する「一」のように見えます。

実際、彼女は、二元論を否定する「一元論(空性)」の守護者とされることもあります。

エカジャティ

このように、「一」は、日常的な論理を作る「二元論」を超えるプラスの価値を象徴することがあります。


また、「ない」という異形性も、「一」の異形性と類似した意味があると思います。

例えば、「のっぺらぼう」は、顔の部位を持ちません。

のっぺらぼう

一般に「のっぺらぼう」は、「間抜け」や「しらばっくれる」といった悪い意味を持つようです。
ですが、プラスの意味では、未分化であるがゆえに、あらゆるものになる可能性、創造性の象徴となりえます。

「荘子」には、目鼻などの穴のない「渾沌」という帝王がいて、目鼻をつけると死んでしまった、という話があります。
この目鼻のない「渾沌」は、「タオ(道)」の象徴です。

「渾沌」のモデルとされる「山海経」の帝江

「のっぺらぼう」や「一つ目小僧」は、たいていは、ただ脅かすだけで、実害を与えません。
仏教的には、自我が作る安定した社会的価値観・認識世界を壊すきっかけ、ショックを与えるものとして、肯定的に捉えることができます。
「一つ目小僧」が「空」の一元論なら、「のっぺらぼう」は「無」の象徴です。


また、多数の妖怪が、丸い体、丸い頭をしています。
この「丸」の異形性にも、「一」や「ない」異形性に類似した意味があると思います。

「一」や「無」を図形化すると「丸(円)」になるからです。

また、丸い身体や丸い頭は、幼児が持つ最初の身体や顔の形のイメージです。
それらは、未成長、未分化であるがゆえに、限定されない創造性の象徴でもあります。

先にあげた「のっぺらぼう」は、丸い顔をしていますし、もとは頭と胴体が分かれていない丸い体をしていました。


*解放の歴史と実践をテーマとした、後編「妖怪を二元論から解放する2:昇格」に続きます。

*参考書

・中沢新一「神の発明(カイエ・ソバージュIV)」(講談社選書メチエ)
・中沢新一「対称性人類学(カイエ・ソバージュV)」(講談社選書メチエ)
・小松和彦「妖怪文化入門」(角川ソフィア文庫)
・京極夏彦「妖怪の理 妖怪の檻」(角川文庫)
・多田克己「百鬼解読」(講談社文庫)

*タイトル画像は、水木しげるの「妖怪 百鬼夜行展」のポスターより



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