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宿神、荒神、後戸の神、黒い翁

「神秘主義思想史」に書いた文書を編集したものです。


日本の中世に特徴的な神格に、「宿神」、「荒神」、「後戸の神」、「翁」などがあります。

猿楽の核心である「翁舞」の「式三番」、そこに登場する「黒い翁(黒式尉)」は、これらの神の本質に関わります。

この投稿ではこれらについて紹介します。

ですが、まず、これらの背景にいる有史以前の神、「シャグジ神」から始めましょう。


シャグジ神


現在でも日本各所で祀られていて、縄文時代まで遡れると思われる神に、「シャグジ」、「ミシャグジ」、「シュクジン」、「シュグジ」、「サクジ」などと呼ばれる神がいます。

漢字では、「守宮神」、「社宮司」、「守公神」、「宿神」、「宿地神」、「作神」、「佐久神」、「左口神」、「赤口神」、「遮軍神」、「将軍神」、「姉后神」など、様々に表記されてきました。
また、地名にもなって、上記以外に、「坂越」、「杓子」、「尺子」、「坂口」、「石神井」などがあります。

例えば、諏訪神社は古層の信仰を残していますが、その核心と言える上社前宮の御室神事で、御杖柱に降りるのは「ミシャグチ神」です。
この神は、現在にまで残る「シャグジ神」の一例です。

「シャグジ神」は、大和言葉の「サ・ク」と関係しているようです。
この言葉は、包まれていたエネルギーがその先端部が裂けることで顕れることを意味します。

裂く運動が、「サク(裂く)」であり、裂けて現れることは「サク(咲く)」です。
顕れたたものは、「サチ(幸)」であり、それが飲料であれば「サケ(酒)」となります。
顕れる場所である先端部は、「サキ(先)」であり「ザキ(崎)」、「ミ・サキ(岬)」、「サカ(坂)」、そして、「サカイ(境)」です。
時間的な先端も「サキ(先)」です。

この神は、包まれているという点では「胎児」、誕生するという点で「嬰児」のイメージを持っています。
包んでいるという側から見れば「胞衣」のイメージであり、「胞衣神」と一体です。

また、「シャグジ神」は、「地主神」、「道祖神」、「樹の神」、石棒(男根象徴)や石皿(子宮象徴)、丸石(嬰児・睾丸象徴)をご神体とする「石神」という性質も持っています。

そして、この神は、中世には、「荒神」や、芸能民・被差別民の神だった「宿神」という形になった、あるいは、習合しました。


荒神


中世の特徴的な神に、「荒神」や「翁」があります。
これらは、単純に神祇信仰・神道の神でもなければ、仏教の神でもなく、それらが習合する中で生まれてきました。

はっきりと形をとった寺院での「荒神信仰」は、11C初め頃、まず、箕面の真言宗の勝尾寺で起こり、箕面寺がこれに続き、その周辺の北摂津を拠点にして広まりました。
この「荒神信仰」は、仏教だけでなく、陰陽道とも交流しながら、修験者によって広められました。

「荒神」が生まれた背景には、神祇信仰の「荒魂」の観念や「怨霊信仰」があると思われます。
ですが、直接的には、仏教における障礙神の「毘那夜伽」が調伏されて護法神の「聖天」になったという仏教神話から影響を受けています。
そのため、「荒神」は、荒々しい悪神としての障礙神と、護法神(守護神)としての側面を合わせ持ちます。

また、「荒神」には、忿怒相の「三宝荒神(忿怒荒神)」だけではなく、柔和相の「如来荒神」、僧形の「小島荒神」などの相形があり、「無明即法性」を表現する神とされました。
「三宝荒神」は、一般に三宝(仏法僧)の守護神とされ、三面六臂または八面六臂の忿怒相で表現されますが、「金剛薩埵」と同体であると言われます。

護法神としての「荒神」に対しては、僧によって「荒神供」が行われました。
例えば、大伽藍を建立する時などにも、悪神・悪霊を召請して護法神にするために「荒神供」が行われていました。
一方、悪神としての「荒神」に対しては、陰陽師などが「荒神祓」を行いました。

「荒神」について説く「荒神縁起」では、「荒神」が世界の最初に出現した神であり、仏以前の「仏兄」であると語るものもあります。
つまり、「荒神」を根源神にまで高めているのです。
そして、「荒神」を知らぬ者には障礙がありますが、供養すると所願が成就します。

また、「荒神」の祈祷の時、「臍の緒」を脇壇に置いて加持を行いました。
「臍の緒」は「胞衣」の一部と考えられていましたので、「荒神」は「胞衣」とつながりが深い神であり、「シャグジ神」とも習合しているようです。

「荒神」の守護するという働きは、「シャグジ神」の胞衣が保護するという働きともつながります。
「荒神」は、胎児の時から人を守護する神なのです。

また、「シャグジ神」の「顕れる」という性質を表す大和言葉の「アラ」の部分は、「荒神」の「荒」の「アラ」と同根の言葉でしょう。
つまり、「荒魂」の「アラアラ」しいという性質は、エネルギーが「アラワ」れることと同じです。

また、大和猿楽との関係では、泊瀬川(初瀬川)の源流の泊瀬山(今の笠山)の竹林寺が、「笠荒神」の寺とされ、泊瀬山が「三宝荒神」の正体とされました。
「笠」は「荒神」の象徴であり、それは「胞衣」でもありました。

大和猿楽と関係の深い春日神社では、春日明神の本地が弁才天とする説がとなえられ、弁才天と習合していた宇賀神が「荒神」とも習合しました。
同じ藤原氏の興福寺でも、「荒神供」が月例行事として行われました。

そのため、泊瀬周辺や春日神社、興福寺と関係が深かった猿楽座にも、「荒神信仰」が大きな影響を与えたはずです。

また、「荒神」は、仏教寺院以外では、地主神、山の神、樹木神、道祖神などと習合し、これらの神が「荒神」として捉えられるようになりました。
これらの一部は、「シャグジ神」であり、「シャグジ神」が「荒神」として捉えられるようになったと言えそうです。

ちなみに、近世には、「荒神」は、「竈神」と習合して広がりました。


後戸の神


寺院の堂の背面にある戸を「後戸」と呼び、仏事・法会の時、位の低い僧などが出入りをします。

また、この戸のある仏壇の後方の空間、つまり「後堂」のことも「後戸」と呼ばれました。
仏の後ろ姿を見ることがタブー視されたので、この空間もタブーの空間でした。
この空間は神聖視され、母性的で暗黒の空間というイメージもありました。

この仏壇の後方には、「後戸の神」として、本尊に対する「守護神(護法神)」が祀られました。
主な守護神には、「摩多羅伸」(天台宗の常行堂)、「執金剛神」(東大寺法華堂)、「不動明王」(東寺西院御影堂)などがあり、忿怒相、戦闘神といった性質を持っています。

また、仏に供え物・常灯をともすなどを担当する下級の専門僧(承仕)も、「後戸」、あるいは「後戸方」と呼ばれました。

背後の空間としての「後戸」の神聖性は、仏教の文脈でははっきりと表現されませんでしたが、神社の後には神の本体、あるいは、本体がいる場所としての山があることが普通でした。

日本では古来、大和言葉で「オク(奥)」と呼ばれる空間観念がありました。
「奥宮」、「奥山」、「奥島(沖島)」などがそうであるように、「奥」は、生命力に溢れた神聖な場所を表現します。
この言葉は、「オウ(大、王)」、「アオ(青)」、「アワ(淡、阿波、安房)」、「オキナ(翁)」、「オウナ(媼)」といった言葉とも同根だと思われます。

ですから、無意識であったとしても、「後戸」の空間は、「オク」としての神聖さを持っていたはずです。

そのため、「後戸の神」は、単に「守護神」というだけではなくて、「根源神」と見なされる可能性を持っていました。

また、忿怒の守護神という点で「後戸の神」と同じ性質を持つ「荒神」が根源神とされることがありましたし、インド後期密教でも、執金剛神のような忿怒の守護神が金剛薩埵として根源仏にまで昇格しました。


猿楽


「後戸猿楽」と呼ばれる猿楽・猿楽師がありました。

「猿楽」は、元は「散楽」と呼ばれていましたが、11C前半に「猿楽」と呼ばれるようになりました。

猿楽師は、東大寺などの国分寺で行われる修正会・修二会の追儺の儀式に呪師とともに参加していました。
追儺では、鬼を追う「呪師走り」が結界の儀礼として行われました。

追うのは呪師が演じる毘沙門天や龍天、そして陰陽師が演じる方相氏などですが、猿楽者は主に追われる側の鬼である障礙神の「毘那夜伽」などを演じました。
この「毘那夜伽」は「荒神」と習合しました。

また、呪師は、方堅(結界・地鎮)の儀礼を行いましたが、これには「荒神」に対する儀礼が含まれ、猿楽師はこれを受け継ぎました。

そういったいきさつもあって、猿楽師は、「荒神」を、猿楽師の祖神や、猿楽の神である「宿神」、「翁」と習合させました。

猿楽は、主に、怨霊を鎮めるために行う呪的芸能で、為政者からすれば、穢れの清めに当たり、そのため、猿楽師は「清目」とも呼ばれました。
「清目」というのは、死体の処理などを行った被差別民を呼ぶ言葉でもありました。

そして、鎌倉時代の13C後半から室町期にかけて、「後戸猿楽」が生まれました。

この時代に、大和の猿楽師が法勝寺や法成寺などの修正会といった国家的仏事・法会に参加するようになりました。
この時、猿楽師は、仏堂の後戸に席を配されて待機していたため、「後戸猿楽」、あるいは「侍猿楽」と呼ばれました。
これは、「低い」、「正統ではない」といった、否定的な意味合いをもって呼ばれたものです。

ですから、後戸の空間で猿楽を舞ったためにこの名で呼ばれたのではありません。
ただ、国家的ではない仏事・法会では、「後戸の神」のための舞いを後戸の空間で舞うことはありました。


秦河勝と怨霊


猿楽師の間で、その祖とされるのは、聖徳太子の寵臣だった秦河勝です。

大和猿楽の結崎座に由来する観世流の世阿弥が著した「風姿花伝」の「神儀式云」によれば、河勝は、泊瀬川(初瀬川)から三輪大神の社前に流れてきた「壺」から生まれたという伝説を持ちます。

また、河勝は、「空舟(うつぼ舟)」に乗って播磨の「坂越」に至り、人々に祟りをなしたので「大荒大明神」として祀られました。

おそらく実際には、河勝は晩年に、藤原鎌足の政略によって流罪となったのでしょう。
つまり、河勝は藤原氏によって追い落とされて「怨霊」になったのです。
そして、坂越の「大避神社」に祀られました。

猿楽師は、「怨霊」を祖としているのです。
ちなみに、世阿弥も晩年、佐渡に流されています。

世阿弥の娘婿で金春流の太夫だった金春竹禅は、河勝を「大荒神」であると書いています。
「笠荒神」の山である泊瀬山から流れる泊瀬川を流れてきた河勝は、最初から「荒神」です。そして、坂越で「怨霊」となってその姿を現したのです。

このように、猿楽師・秦氏の祖神は「荒神」と習合したのです。

河勝は、「壺」と「空舟」の中から現れました。
「壺」、「空舟」は、「笠」と同様に、象徴的に「胞衣」を象徴します。
ということは、河勝は「シャグジ神」の性質も継承しています。

河勝が流れ着いた「坂越」、「大避神社」は、どちらも「サ・ク」系の言葉を元としているので、これは「シャグジ神」の場所であり「シャグジ神社」です。


猿楽と翁


猿楽の核心は「翁舞」であるとされます。

「翁」は、老いた男性のことですが、中世では、神が化身として現れる時の姿とされました。

日本では、有史以前から、祖神を「翁」や「媼」の姿で表現してきました。
「記紀」では、スサノオが出雲に下った時に出会った「老夫」、「老女」が国つ神と名乗っています。
また、「塩土老翁」も海神の化身であり、国つ神に当たります。

中世において、「翁」は、最初、八幡、住吉、松尾、稲荷などの、神仏習合した国つ神の顕現した姿として現れました。
これをモデル化すれば、本地仏→垂迹神→化翁、となります。

世阿弥は、河勝の子孫が春日・日吉の神職に就いていたと書いていますが、神社で猿楽を納める猿楽師は下級の神職でした。

ですが、猿楽の「翁」は、一般的には「国つ神」であり、それを舞う猿楽師はその神主に相当する存在であると言えます。
「翁面」も、神として扱われました。

ただ、大和猿楽の「翁」は、限定すれば秦氏・猿楽師の祖神、あるいは職業的祖神である秦河勝です。

そしてそれは、「荒神」であり、「怨霊神」です。
ですから、「翁舞」は、「怨霊神」が朝廷や幕府を守護し、その天下泰平を祈願する立場から、他の怨霊を鎮めるために舞われます。


猿楽と宿神


猿楽を含めた芸能の神とされるのが「宿神(守宮神)」です。
猿楽の発祥の神社とされる奈良豆比古神社が祀る祖神も「宿神」です。

また、西日本の被差別民が多く祀るのも「宿神(宿地神)」です。

これらの神は、その名からして「シャグジ神」の中世的形態です。

観世流の口伝書「八帖花伝書」によれば、「宿神(守久神)」は八幡大菩薩、天照大神、春日明神の守護神、特に若宮(出現したばかりの神)を守護する神であって、その意味で父母であると記しています。

また、猿楽師が「楽屋」に入ることは人の胎内に宿ることであり、舞台に上がることは出産に当たると書きます。
「翁」を舞う時、「翁」は、「楽屋」という「胞衣」から嬰児として現れるということになります。
ここには、「シャグジ神」や「荒神」との類似した性質を見ることができます。

金春禅竹は「明宿集」で、「宿神」は「翁」であると書いています。

以上のように、猿楽師の祖神である秦河勝は、=怨霊=荒神=翁=宿神=シャグジ神 なのです。


式三番と黒式尉


「翁舞」は、物語を持った「能楽」とは異なります。

14Cに、亡者の供養の夢幻譚を語り歩く「勧進聖」が生まれて、彼らが行う興行型の勧進に猿楽師が参加するようになりました。
これに合わせて、庶民に向けて、亡者追善の物語の形を持つ「能楽」が生まれました。

大和の猿楽座には、「翁舞」を舞う専門の猿楽師と、一般の演能の猿楽師がいました。
「翁舞」を舞うのは、観世流では太夫のみ、金春流では宗家ではなく「年預衆」と呼ばれる呪術的芸を受け継いだ非能楽師でした。

観世流は、観阿弥の時に足利義満に気に入られて、幕府お抱えの存在になりましたが、将軍の前で翁舞を舞う時に、太夫だけというルールにしたのでしょう。

「翁舞」の核心は「式三番」です。
六十六番あったものが三番に濃縮されたものとされます。

「式三番」の原型では、「稲積翁」、「代継翁」、「父助」という三人の「翁」が舞ったようです。
「稲積翁」は最初の祖、「代継翁」は祖に次ぐ先祖、そして、「父尉(父助)」は現在の家長でしょう。

それが世阿弥の時には、「式三番」では、「翁」、「三番猿楽」、「父尉」となり、後には、「翁」、「三番叟(三番三)」、「千歳」となりました。
「稲積翁」のみが「翁」と呼ばれ、「代継翁」が「三番猿楽」、「三番叟」になり、「父助(父尉)」が「千歳」になったのでしょう。

「千歳」は、祖神ではないので、面なしで舞う若者であり、露払役です。

「三番叟」は、黒い面をつけて踊ります。
「翁」=「白い翁(白式尉)」であるのに対して、「三番叟」=「黒い翁(黒式尉)」なのです。

「式三番」は、「怨霊」を慰めて、「千秋万歳」、つまり、恒久の天下泰平を祈ります。
将軍や公家などの貴人の前で舞う場合は、現在の支配体制の天下泰平を祈ることになります。
ですが、「黒い翁」の舞いは、そこから外れます。

「式三番」では、最初の「翁の段」で、「白い翁」役が貴人に拝礼をします。
そして、「千歳」が露払い役として、四方の悪霊を鎮める舞を舞います。

この後、「白い翁」が立ち上がって舞に向かうのですが、その前に一瞬、面をつける前の「黒い翁」も立ち上がって、二人が対面します。

その後、「白い翁」は祝言を述べ、「在原や、なぞの翁ども…」と言います。

そして、「千秋万歳の喜びの舞」と言って、舞いますが、実際には、ほとんど舞いません。
次の「黒い翁」につなげているようにも思えます。

そして、「白い翁」役は面を外して再度、拝礼をして舞台を降ります。

それに続く「三番叟の段」の最初の「揉の段」では、「黒い翁」が、「私のような身分のものにも、喜びがあるなら、私のところより外へはやらない」と語って舞います。
つまり、この舞は、貴人のための舞ではありません。

「黒い翁」の舞は、「踏む」と表現される激しい舞で、「翁」、「千歳」の時は小鼓が打たれるのに対して、「黒い翁」の時は大鼓が打たれます。

その後、「千歳」が「黒い翁」に、貴人のために舞ってくれと何度か押し問答をして、鈴を渡すと、「黒い翁」はしぶしぶ了承します。
最後の「鈴の段」では、「黒い翁」が、貴人の天下泰平のために、鈴で四方の悪霊を鎮めながら舞い、拝礼をせずに舞台から降ります。

「黒い翁」の起源は、猿楽においては、追儺で追われていた鬼の「鬼面」に由来するものでしょう。
ですが、「黒い面」の起源となるのは、田楽の阿満、田男などにあります。

阿満、田男などの面の多くは、口をすぼめて曲げた、ヒョットコのような口をしています。
これは、「うそふき面」と呼ばれ、語らずに反抗を示す、あるいは、語ってもウソを語ることを意味します。

つまり、「白い翁」は祝言を述べることを本質としますが、「黒い翁」は激しい舞いを本質として、祝言を述べたとしても面従腹背であることを示します。

「白い翁」が祖神・国つ神の「和魂」だとすれば、「黒い翁」は「荒魂」です。
「荒神」となった「黒い翁」には、「守護神」の側面と、「怨霊」の側面があると考えられます。

「鈴の段」の「黒い翁」は悪霊を鎮める「守護神」ですが、「揉の段」では「怨霊」のような激しい舞を舞います。
ですが、「怨霊」なら喜びの舞を舞うというのはおかしいことです。
この「黒い翁」は、支配されて二面化される以前の、純粋な祖神なのでしょう。

「白い翁」が「黒い翁」役と対面した後に言う、「在原や、なぞの翁ども」とはどういう意味でしょう。
「在原」は、在原業平が「翁」を歌った歌か、在原滋春が「鶴亀も千歳…」と歌った歌を思い出しているのだと解釈されることが多いのですが、腹落ちしません。

「黒い翁」に対して「誰だ」と言っているとしたら、「白い翁」は自分の半身である「黒い翁」を忘れていることになります。
「白い翁」は「黒い翁」役と対面しただけで、顕現した「黒い翁」とは対面せず、二人は同時に両立しないのでしょうか。

金春禅竹は、「明宿集」で、翁面と鬼面を一体のものと書いています。
ですが、禅竹は、その「翁」の本質を、単なる祖神や守護神ではなく、根源神にまで高めました。

これについては、下記ページをご参照ください。


*参考文献

「黒い翁」乾武俊
「翁と河勝」梅原猛
「後戸と神仏」小田雄三
「精霊の王」中沢新一
など



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