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消された九州王朝の万葉集

「九州王朝論の比較」に書いた文章を転載します。


古田武彦は、現存する「万葉集」には不審点があり、もともとは九州王朝が作った「倭国万葉集」をもとに作られたのではないかという説を提唱しています。

以下、古田の説を簡潔に紹介します。

参考
*「人麿の運命」(古田武彦)
*「盗まれた神話」(古田武彦)
(「古代史の十字路 万葉批判」は未読です。)


万葉集の不審点


古田武彦は、現存の「万葉集」には、以下のような不審点があると言います。

・冒頭が「雑歌」の一句で始まっている

「雑歌」は「その他」の意味で、中国の歌集では、末尾近くに置かれます。

・防人歌で年代のわかっているものは、すべて8世紀であり、7世紀以前の歌がない
・九州や瀬戸内海領域の人が作ったと明記された歌がない
・白村江の戦いの歌がない
・奥書がない
・「続日本紀」などに「万葉集」の編纂の記事がない

最後の2つは、「万葉集」が公式にできない歌集だったことを示しています。

「万葉集」は、天皇家の奥座敷である「梨壺」という、裏向きの遊芸の場で、女たちによって伝えられたのです。


倭国万葉集


古田は、これらの疑問点を解決する解答として、最初に存在したのは筑紫を中心とする「倭国万葉集」だったのではないかと考えました。

そして、その「雑歌」としてあった大和の歌を、現存する「日本国万葉集」の一巻、二巻として、その出発点としたのです。

「日本国万葉集」では、近畿王朝が偽造した公式の歴史に照らして都合の悪い九州王朝の歌は、ほとんどが削除され、一部が詠み人知らずとして掲載されました。

その残された痕跡と推測さえるのが、「万葉集」巻七の一二四六の末尾の、

「右の件の歌(者)は、古集中に出づ」

という注です。

古田は、この「古集」が、「倭国万葉集」のことではないかと推測しました。

「万葉集」には、「古集」から51首の歌が掲載されています。

これらの歌を見れば、柿本人麿は、それを学んで、それを自分の作品に生かしていることが分かります。

これらの歌を作ったのは、おそらく筑紫の歌人ですが、その名は消されています。


柿本人麿の和歌の解釈


古田は、九州王朝の証拠を残す人麿の次の歌を解釈しました。

巻三 三○四 柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌
「大君の 遠の朝廷とあり通ふ 島門見れば 神代し思ほゆ」

筑紫に向かう途中の海峡を通り過ぎる時に、神代を思うと詠っています。

問題は、筑紫国に「遠の朝廷」があると詠んでいることです。

「万葉集」では、筑紫を指して「遠の朝廷」と表現している歌がいくつもあります。

定説では、無理矢理、これを「地方の役所」などと解釈します。

ですが、これは無理筋であって、「万葉集」以外でそのような使用例はありません。

「朝廷」は、本来、「天子(皇帝)」が住む場所ですから。

この歌の「大君」は、古写本では「大王」であり、これは持統天皇を指します。

つまり、持統天皇は「天子」ではなく、近畿王朝は「朝廷」ではありません。

一方、大宰府には「天子」の宮殿を意味する「紫宸殿」がありました。

つまり、大宰府は、多利思北孤のように「天子」を名乗る君主がいる王朝の都だったのです。

また、「島門」については、定説では、明石海峡や関門海峡などで、他にも、遠賀川河口の島門であるという説もあります。

ですが、博多湾頭の志賀島(金印の島)と能古島(国生み神話のオノコロ島)の間でしょう。

近くにはイザナギが禊をして三貴神を生んだ場所や、邇邇藝命が天孫降臨した場所があり、「神代し思ほゆ」にふさわしい場所です。

そして、正面は、これから向かう大宰府の朝廷の方向です。

人麿は、「柿本朝臣人麿」と記載されていますが、「朝臣」は筑紫倭国から任命されたものです。

藤原鎌足も同じく「朝臣」として記載されています。

近畿王朝が二人を同じ位にするのはおかしいでしょう。

この時の人麿の歌は、反歌と思われる二首だけが掲載されていて、おそらく、長歌は削除されたのでしょう。

「万葉集」には、人麿の白村江の戦いの敗戦後の悲歌が掲載されていません。

当然、彼は傑作を作ったと推測されますが、削除されたのでしょう。

また、彼が筑紫に着いた後、在留時にも、筑紫の朝廷の挽歌を作ったでしょう。

それも傑作だったと推測されますが、削除されたのでしょう。


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