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日本書紀に伴う歴史歪曲事業

「九州王朝論の比較」に書いた文章を転載します。


日本国が唯一の公式の最初の史書として制作し、残されてきたのが「日本書紀」です。

「日本書紀」は、万世一系の天皇家が、大和に始まる列島唯一の近畿王朝を統治してきた歴史を語ります。

「日本書紀」には序文・上表文がなく、編纂の経緯に関する記述はありません。

その続編である「続日本紀」には、720年に「日本紀」の30巻と系図一巻が完成したという記載しかなく、「日本書紀」との関係には諸説があります。

九州王朝の立場から概して言えば、「日本書紀」は、九州王朝などの他の王朝の歴史を簒奪・継承しながら、捏造・編集したものです。

当然、他の諸王朝、諸王統の存在を消しています。

「日本書紀」には、一書として多数の書が引かれますが、それは何であるかは記されていません。

「日本書紀」の制作時には、多数の史書の類を収集して参考にし、その後、それらをすべて焚書にした可能性があります。

それだけではなく、「日本書紀」に合致しないあらゆる証拠を処分したり、これに合致するように修正したりした可能性もあります。

河村日下は、「九州王朝の盛衰と天武天皇」で、持統期から元明期にかけて行われた、この「日本書紀」に付属する歴史歪曲事業を解き明かしています。

このページには、これについて紹介します。


墓記を上進


691年、持統紀に「十八の氏…に詔して、其の祖等の墓記を上進せしむ」とあります。

定説では、「墓記」は先祖の歴史のことであり、この詔の意味は、諸氏族のその伝承を献上させ、それらを材料にして史書を作るためのものとされます。

ですが、河村は、「墓記」=「墓誌」は、墓の中に入れたものであると考えます。

ですから、この詔は、諸豪族、王族のすべての墓の中のある墓記を取り出して提出させるものであると主張します。

これは、一種の一大公共事業としての盗掘です。

実際、持統期以前の各地の発掘された古墳からは、被葬者を特定できる墓記に当たる出土物は発見されません。

これは、歴史の収集であると同時に、書紀の歴史に合致しない証拠を消す作業でした。

古代においては、王朝や支配者が変わった時、旧王朝や旧支配者の墓を暴くことは当たり前に行われていましたので、その中に墓記があれば、書紀の虚構がバレてしまいます。


史書の収集と焚書


「続日本紀」の元明紀の707年、708年、元正紀の717年に、山沢亡命者の記述があります。

彼らは、軍器(707年)、禁書(708年)、兵器(717年)を狭蔵しているので、それを手放して罪に服するように呼びかけています。

河村は、「山沢亡命者」の実態は、抵抗していた九州王朝の残存正規軍であり、神護石山城などに立てこもって戦っていたと考えます。

いずれにせよ、708年に時点で、反体制勢力から禁書とされる史書の押収を行っています。

712年には「古事記」が完成します。

ですが、この時点で、新しく押収した禁書を利用して、別の史書(日本書紀)を作る計画が立てられていたため、「古事記」は秘されたのでしょう。

古事記序文には「諸家の所蔵する帝紀・本辞には虚偽が多い」と述べていますが、これは、古事記編纂の時点では、押収できていない史書がまだあったことを示しています。

「日本書紀」では、押収された九州王朝の史書は、多数の「一書」として利用されました。

「日本書」も押収書の一つだったのでしょう。

また、「旧唐書倭国日本伝」には、713年に、日本の使節が中国の書籍を買い漁ったという記述があります。

「史記」、「漢書」、「後漢書」、「隋書」、「文選」、「芸文類聚」、「淮南子」など、書紀が書名を明かさずに引用している書を購入したのでしょう。

720年に「日本書紀」が、「日本書」に帝紀を表す「紀」を付け足した書名で完成しました。

そして、書紀の完成とともに、「譜第」、「日本旧記」、「日本世記」、「百済記」、「百済新撰」、「百済本記」など、他のすべての史書が禁書として廃棄されました。

*この項目の河村の説は、古田武彦の説を下敷きにしたものです。


「風土記」潰し


「続日本紀」元明紀の713年に、「風土記(古風土記)」の編纂を命じる記事があります。

その内容として、「土地の沃塉、山川原野の名号・所由、また、古老の相伝ふる旧聞・異字事は、史籍に載して」とあります。

地名の由来や古老の相伝を載せるというのは、歴史の収集であり、その検閲であり、書き換えさせることです。

また、「好き字を着けしむ」ともあります。

これは、悪い表現の地名を、良い表現の地名に変えろという命令です。

一見、良いことを行っているように思えますが、地名を変えることは、歴史を消し、書紀の捏造を不明にすることです。

各「風土記」では、書紀の通りの歴代天皇を、歴史の時間軸にすることが徹底されています。

つまり、「風土記」の編纂は、各地の本来の「風土記」潰しであり、書紀に沿った歴史にする目的がありました。

国の数は100ほどあったと思われますが、ほぼ完本として伝えられている「風土記」は5つで、逸文として伝えられているものが43あります。

これらは散逸の結果だけではなく、多くが基準を満たせずに、削除、廃棄処分とされた可能性を示しています。


遷都と地名変更


河村は、飛鳥浄御原宮は存在せず、木簡の証拠がある藤原宮が、九州王朝が最初に近畿に遷都した宮であると考えます。

大宰府を都としていれば、新しい史書の矛盾が露呈するということも、近畿に遷都した一因ではないでしょうか。

また、当然、遷都、「日本書紀」の編纂に伴って、畿内の地名を書紀と合致するように変更しました。


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