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九州王朝論の20の主な主張

「九州王朝論の比較」に書いた文章を転載します。

九州王朝論は、論者によって様々な違いがありますが、このページでは、九州王朝論に独自な、20の主な主張を紹介します。

大まかに言えば、白村江の敗戦まで、あるいは、大宝律令による律令国家としての日本国が始まる以前においては、倭国を代表する王朝は九州にあったとするのが、九州王朝論です。

九州王朝論の主な論者には、「筑紫一元論」の古田武彦、古賀達也、大下隆司、「筑豊二元論」の福永晋三、兼川晋、室伏志畔、「筑肥二元論」の佃収、「筑奈二元論」の斉藤忠などがいます。



1 7C頃まで倭国の宗主国は九州(筑紫、豊国、肥国)にあった

これは、ほとんどの九州王朝論者の主張です。

九州王朝は、白村江の敗戦や頻発した大地震で衰退し、8C頃に近畿王朝に宗主国が移動した、あるいは、遷都したと考えます。

また、斉藤は、九州王朝と近畿王朝が何度か宗主権を奪い合ったとします。

大芝ら「筑豊二元論者」は、九州に筑紫王朝と豊国王朝が並存して宗主争いをし、豊国王朝が近畿に遷都したと考えます。

佃収も、筑紫や肥後などに複数の王朝の並存を認めます。


2 九州の王朝による継続的な年号が存在した

独自の年号を持つことは、独立した王朝の特徴で、中国の冊封体制下や、他の倭の宗主国の下にあれば持てません。

近畿王朝は701年の「大宝」以降は継続した年号を持ちますが、それに以前には持たなかったと、九州王朝論者は考えます。

そして、細かな違いはありますが、「二中歴」や古文書などを根拠に、517年の「継体」、あるいは、522年の「善記」から、「大宝」前後の「大長」まで、九州の王朝が年号を持っていたとします。

複数の王朝にまたがって改元された、あるいは、複数の王朝が並存して年号を建てていたとする論者もあります。


3 日本国(近畿王朝)は九州王朝の歴史を奪った

今に伝わる近畿王朝の最初の公式の歴史書は「日本書紀」です。

九州王朝論者は、「日本書紀」は、九州王朝の史書に記載された歴史を、近畿王朝の歴史に書き換えて作られたと主張します。

そして、九州王朝の存在を消しました。

万世一系として作られた近畿王朝の天皇の系譜には、九州王朝の王や天子(天皇)が取り込まれている、あるいは、彼らをモデルにしていえる考える論者もいます。

また、論者のそれぞれが、記紀に近畿の地名として書かれている地名の多くが、本来は、九州の地名だったと考えます。


4 天孫降臨は史実を反映する

九州王朝論者のほとんどは、記紀の天孫降臨を、歴史的事実を反映したものと考えています。

吉田は、天孫族が降臨以前にいた天国(あまくに)を、壱岐島、対馬などの島々であると考えます。

そして、降臨地(渡来地)は、宮崎の日向ではなく、筑紫の日向であるとします。

多くの九州王朝論者は、これを支持しています。

また、大芝や福永などの「筑豊二元論」を主張する論者は、邇邇藝命に先んじて、饒速日命が豊前の古遠賀湾に降臨したと考えます。


5 出雲の国譲りは筑紫倭国に対するもの

古田を初めとして、多くの九州王朝論者は、出雲王朝が九州王朝に先んじていたと考えます。

そして、記紀に書かれた出雲王朝の国譲りは、近畿王朝に対してではなく、九州王朝に対して行われたのです。

また、室伏は、スサノオの出雲王朝が討った原出雲族(八雲族)の一部が、近畿に逃亡して大型化した銅鐸の文化を作ったと主張します。


6 神武東征は史実を反映する

九州王朝論者の多くが、記紀の神武東征は、歴史的事実を反映したものと考えています。

古田は、東征を銅鐸圏の近畿の王朝への侵攻とします。

銅鐸の分布から、摂津東域の東奈良遺跡がこの王朝の都だったと推測し、神武の段階では、大和盆地の侵入には成功したものの、周りの銅鐸勢力には勝てなかったとします。

佃は、邪馬台国に討たれた伊都国から、神武が逃亡したと考えます。

また、大芝ら「筑豊二元論」を主張する論者は、神武は筑紫から豊前王朝に東征したと考えます。


7 邪馬壹国は北九州にあった

九州王朝論者の多くは、邪馬台国(邪馬一国)は北九州(筑前や豊前)にあったと考えます。

国名について、古田は「魏志倭人伝」の写本の記載の通り、「邪馬一国(やまゐこく)」だったとし、多くの論者はこれを継承しています。

邪馬台国(邪馬一国)を、新たな渡来者が建てた国と考える論者もいます。

大芝らは半島の倭国の狗邪韓国が侵攻した国、佃は半島の卑弥氏が渡来して建てた国とします。


8 近畿王朝による九州征伐はなかった

4C頃の日本史として、「日本書紀」は景行天皇やヤマトタケル、神功皇后らの九州の熊襲征伐を語ります。

ですが、古田は、「古事記」に同様の記事がないことを指摘し、筑紫王朝が九州を平定した歴史を、「日本書紀」が簒奪したのだと主張します。

ただ、福永は、丹波王国の神功天皇が西征して邪馬壹国を滅ぼして、筑紫水沼に遷都したと考えます。


9 北九州に貴国があった

古田は、「神功紀」に引用された「百済記」と、書紀の本文に、百済側から見た第三者の倭国を指して「貴国」という国名が出てくるので、当時の倭国が「貴国」と呼ばれていたと考えます。

大宰府近くに「基山」、「基肄」があり、「貴国」はこの「キ」地域を都としていました。

兼川や佃は、「貴国」を建てたのはタラシ系の王統だとし、彼らは渡来人(半島の多羅からの、多羅氏)であったと主張します。


10 倭の五王は筑紫の王

九州王朝論者は、「宋書」で語られる5Cの倭の五王(讃、珍、済、興、武)を、筑紫の倭王であると考えます。

古田は、「讃」が好太王と戦った倭王だとします。

福永は、「松野連系図」系図で「讃」の父が「縢(とう)」となっているので、これが「藤大臣」と呼ばれた武内宿禰であり、「讃」は応神天皇とします。

兼川は、「武」が478に中国の冊封体制から独立して「天王」を号したと考え、それが筑紫君磐井であるとします。

佃は、卑弥氏の「讃」、「珍」が、中国の倭城から筑紫に渡来して新たに倭国を樹立したと考えます。


11 磐井の乱の磐井は筑紫の倭王

古田は、磐井の墓には裁判の場を表現した石像のある区画があるため、律令制を確立させた筑紫の王であったろうと考えました。

また、磐井が初めて九州年号「善記」の建号を行いました。

ですが、磐井の乱は記紀の捏造であるとします。

福永や兼川ら「筑豊二元論」を主張する論者は、磐井の乱を、筑紫王の磐井が豊国王の勢力によって討たれた事件と考えます。


12 近畿王朝の継体天皇は磐井を討ってはいない

古田は、継体天皇が大和王権を奪取して王朝交替を行ったと考えますが、九州年号が継続しているので、継体が磐井を討ったとする磐井の乱は記紀の捏造だとします。

大芝ら「筑豊二元論」を主張する論者は、継体天皇を豊国王朝の王と考えます。

福永、兼川は、継体が九州年号を建号したと考えます。

ただ、斉藤は、磐井の乱を、近畿の継体が筑紫王を討ったとします。


13 筑紫に俀国があった

「隋書」には「倭国伝」はなく「俀国伝」がありますが、筑紫王朝は当時、「俀国(たゐこく)」という名でした。

これは、「法華義疏」に貼られていた紙に書かれている「大委国」です。

古田は、「俀国」を古くからの筑紫の倭国の後裔と考えます。

「隋書」の帝紀には「倭国」に関する記述がありますが、こちらは「俀国」の宗主下にあった近畿王朝を指すと考えます。

また、兼川、佃は、物部尾輿が、「俀国」を建てたと考えます。


14 筑紫王の阿毎多利思北孤は聖徳太子のモデル

多くの九州王朝論者は、「隋書」に記載されている「日出処の天子」を名乗った「阿毎多利思北孤(アメノタリシホコ)」を、筑紫の大委国の王と考えます。

彼は法隆寺釈迦三尊像の光背銘にある「上宮法皇」であり、仏教を振興しました。

多利思北孤は、北狄であった隋に対して対等外交の意向を伝えて「天子」を名乗りました。

記紀は、厩戸皇子に多利思北孤を合体させて「聖徳太子」を創作しました。

書紀には、推古朝が遣隋使を送ったと記していますが、古田は、これが年代をずらして記載したもので、本当は遣唐使だったと考えます。


15 大宰府は天子の都城であり古くから防衛施設があった

九州王朝論者は、大宰府は筑紫倭国の都だったと考えます。

大宰府は倭京と呼ばれ、藤原京に先駆けた条坊制の都であり、「紫宸殿」、「内裏」、「朱雀門」といった地名が遺存しているので、「天子(皇帝)」を号する君主のいる都(朝廷)でした。

多利思北孤が「天子」を号したことは確かで、当時の九州年号に「倭京(618-)」があるので、遅くともこの時点でこのような都が完成していたのでしょう。

また、大宰府の周りには、畿内にはないような、水城や山城などの防衛施設があります。

水城の科学的な推定年代の上限は3Cにまで遡ります。


16 大化の改新はなかった

記紀の記す645年の「大化の改新」は、捏造であって、実際には行われませんでした。

もしその通りに施行されているとしたら、行政単位が「郡」になっているはずですが、全国で出土した木簡にはすべて「評」のままです。

佃は、新しい王権を建てた天武の父が646年に「僧要の改新」を行ったと考えます。

斉藤は、孝徳天皇が648年に「常色の改新」を行ったと考えます。

また、大下は、「大宝」以降の律令制度は、実際には、九州王朝が九州年号の「大化年間(695-703)」の時期に準備したと主張します。

斉藤は、九州王統の高市天皇がこれを行ったとします。


17 白村江の戦い主導したのは筑紫王朝

九州王朝論者のほとんどは、白村江の戦いを主導したのは筑紫王朝だと考えます。

それに対して、近畿王朝、あるいは、豊国王朝は、実際の戦闘には参加しませんでした。

大下や室伏、斉藤のように、後者は唐や新羅と通じていたと考える論者もいます。

敗戦後、筑紫には都督府が置かれ、唐の占領下に入りました。

そして、唐は近畿王朝と外交関係を結ぶ決定をして、九州王朝は滅びました。


18 天智天皇と天武天皇は異なる王統

古田史学の会のメンバーの多くは、天智、天武を共に近畿王統の人物と考えるようですが、他の九州王朝論の論者の多くは、両者が異なる王統の人物であるとします。

福永、室伏は、天智は豊国王統、天武は筑紫王統の人物と考えます。

兼川は、逆に、天智を筑紫王統、天武を豊国王統とします。

佃は、天智を筑紫の上宮王家、天武を筑紫の天氏の王統とします。

斉藤は、天智を近畿王統、天武を筑紫王統とします。


19 法隆寺など多数の寺院が筑紫から畿内に移築された

室伏は、天武天皇が筑豊の大寺院の藤原京への移築を強行したと主張します。

その結果、例えば、飛鳥四大寺は、筑豊から飛鳥へ、さらに奈良平城京へと二度の移築がなされました。

また、現法隆寺は、最初の法隆寺(斑鳩寺)の焼失後、再建されたのではなく、筑紫から移築されました。

古賀は筑紫の難波天王寺から、佃は肥前の飛鳥にあった法隆寺の移築とします。

また、福永は、679年に発生した筑紫大地震の後に、豊前の寺院の移築が行われたと主張します。

そのため、廃寺跡からは、礎石と瓦は出土しますが木材は出土されません。


20 天武期に九州から近畿への集団移住があった

斉藤は、天武期に、九州王朝の多数の人間が、藤原宮への遷都に前後して大和に移住したと主張します。

それによって、両地域の人口の増減が起こっています。

また、砂川恵伸は、これに連動して、天武以降の近畿王朝で、日本語の音韻の変化が起こり、上代特殊仮名遣いが消失したと主張します。

九州王朝の言葉は、朝鮮語、中国語の影響を受けていたからです。



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