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古田武彦による日本古代通史

「九州王朝論の比較」に書いた文章を転載します。


7Cまでの倭国は筑紫にあったとする九州王朝論を初めて主張したとされるのが古田武彦です。

彼は、親鸞を中心とする中世史学の研究者でしたが、1969年に「史学雑誌」に「邪馬壹国説」を発表して以来、倭国は一貫して九州にあったとし、また、日本各地にも王権があったとする多元的な日本古代史の研究を発表しました。

現在は、古田史学の会のメンバーなどが、古田説を継承しながら、研究を続けています。

このページでは、古田武彦、及び、古田史学の会が考える古代通史の概略をまとめます。

ここでは、論拠の詳細については記載しません。

古田派は日本の各地に王権があったとする点では多元論ですが、九州王朝論としての特徴は、ほぼ「筑紫一元論」です。

つまり、九州の王権は、一貫して筑紫地方(主に現在の太宰府を都とする)を中心にしていたと考えます。

また、九州王朝の歴史を、天族(天神族)の王朝の歴史として描きますので、「天族一元論」でもあります。

ですが、白村江の戦い(663年)の敗戦とその後の北九州における大地震の多発(678-686年)をきっかけに、九州王朝は衰退し、701年の大宝の建元を期して、近畿の日本国に王朝が禅譲されたと考えます。

「旧唐書」が「倭国」と「日本国」を書き分けていることはこれに対応します。

記紀は、九州倭国の歴史書を、近畿の王権の万世一系の観点から書き換えたものです。

また、天孫降臨や神武東征は史実に基づいたものであり、それ以来、近畿にも王朝が継続したと考えます。

参考
*「失われた九州王朝」(古田武彦)
*「盗まれた神話 記・紀の秘密」(古田武彦)
*「古代は輝いていたI・II・III」(古田武彦)
*「壬申大乱」(古田武彦)
*「発見された倭京」(古田史学の会)
*「失われた倭国年号」(古田史学の会)
*「古代史の争点」(古田史学の会)
*「古事記 日本書紀 千三百年の孤独」(古田史学の会)
*「日出処の天子は誰か」大下隆司・山浦純
*HP「新古代学の扉
*HP「古田武彦古代史研究会
*HP「古賀達也の洛中洛外日記
*YOUTUBE「服部静尚講演
*YOUTUBE「正木裕講演
*YOUTUBE「竹村順弘


天孫降臨


天孫降臨は、壱岐、対馬などの対馬海流上の島々の海士族(海人)が、本土に移住した史実を反映します。

これらの島が、記紀にある「高天原」、「天」、「天国」です。

古事記の国産みの段で、島の名に「天」がつくのもこれらの島々です。

天孫降臨の場所は、書紀の一書や古事記が記しているように、宮崎ではなく、筑紫の糸島の日向の高祖山連峯です。

古事記の記している「竺紫」とは筑紫(チクシ)のことで、「高千穂」とは連峯のことです。

糸島の高祖山連峯には日向峠、日向山があってこの地方は日向と呼ばれました。

この場所は、「韓国に向かい」という古事記の記載にも合致します。

宮崎の日向は、この記載に合いません。

ちなみに、糸島郡の王墓と見られる三雲・井原・平原遺跡からは、三種の神器がセットで見つかっています。

また、天孫が降臨した地は、出雲王朝の支配範囲でした。


出雲王朝と国譲り


出雲には、古くから王権がありました。

「出雲風土記」の中には「朝廷」という語が出現しますが、これは大和朝廷を指すのではなく、出雲の大穴持命の朝廷です。

天照大神は、もともと対馬に現存する阿麻氐留神社の神です。

この神社には、「ウチの神様は、神無月に全国の神様たちが出雲に集まる際、一番遅く行き、一番最初に帰ってきてしまう」という話が語り継がれています。

これは、天照大神(天国・筑紫王権)が出雲(王権)の家来のナンバーワンであったということです。

記紀にある出雲の「国譲り」は、史実としては、大和朝廷への国譲りではなく、九州の筑紫王朝への国譲り、つまり、下剋上を示すものです。


倭国


銅矛、銅戈、銅剣は博多湾岸を中心に分布するので、ここがそれらの文化の中心地だったことが分かります。

「後漢書倭伝」に光武帝が金印を与えたとあるように、1世紀には「委奴国」が北部九州を中心とした地域に成立し、博多湾近くに都を置きました。

「委奴国(ゐどこく)」の表記は、従順に従う国という意味で、「匈奴」と反対です。

正木裕によれば、二度目の朝貢からは、臣下と認められて「倭国」と表記されるようになりました。


神武東征


「漢書」には、倭国とは別に、呉と交流する「東鯷国」の記載があり、これが近畿を中心とする銅鐸文化圏の国です。

神武東征は、史実を反映したものです。

神武は倭国王朝の宮崎の日向の分家の豪族です。

神武は瓊瓊杵尊の子孫とされますが、瓊瓊杵尊の兄の天火明尊の名は「天照国照彦火明命」で、直系にふさわしく、瓊瓊杵尊は傍流です。

また、神武に至る系譜の、彦火火出見尊(山幸)は第三子、鸕鶿草葺不合尊は傍流の子、神武は第四子です。

神武は、1-2C頃に大和に東征して近畿分王朝を建てました。

また、東征の途中で遠賀川下流の岡田宮に立ち寄ったのは、神武にとって祖先の地だったからでしょう。

神武東征では、淡路島を境にして、銅鐸圏に入るやいなや戦闘が発生しています。

この神武東征によって、銅鐸の消滅をもたらしました。

ですが、神武は大和盆地の侵入には成功しましたものの、周りの銅鐸勢力の長脛彦には勝てませんでした。

弥生後期に、大和盆地からは銅鐸が消えたものの、周りには残っていた時期があることがこれを証します。

書紀には饒速日命が長脛彦を殺して帰順したとありますが、古事記にはないので、書紀の捏造の可能性が高いと考えます。

銅鐸の分布は、摂津東域の東奈良遺跡が中心なので、ここが銅鐸圏=長脛彦の都だったと推測できます。

ちなみに、書紀によると、神武の即位年は紀元前660年とされますが、これは中国の辛酉革命説(21年に一度の辛酉の年に革命が起こる)に従っています。

これは、書紀が、神武は長脛彦の前王朝を武力で打倒したという認識を持っているということです。

神武の後の欠史八代の天皇は実在しましたが、大和南部を支配するのみでした。

ですが、第10代の崇神天皇の時代に周囲へと出撃戦を始め、第11代の垂仁天皇の時に長脛彦の都(東奈良遺跡)を含めた、河内、摂津を討ちました。


邪馬壹国(3C)


「魏志倭人伝」の記載の通り、「邪馬臺国(邪馬台国、やまたいこく、やまとこく)」ではなく、「邪馬壹国(邪馬壱国、やまゐこく、やまいちこく)」が、博多湾周辺の那珂川、御笠川流域の、博多駅から太宰府に至る領域、定説では奴国のあったとされる場所にありました。

ここは「弥生銀座」、「弥生のゴールデンベルト」と呼ばれる地域です。

この領域内の倭王墓とされる須玖岡本遺跡を含む春日丘陵の遺跡群は、大和の纒向遺跡の2倍の面積があります。

「臺(台)」は天子を意味する漢字なので、中国が東夷に対して使うことは考えられません。

「邪馬壹国」は卑字の表記です。

日本側では「山倭国(やまゐ)」、つまり、倭の山の国でした。

後に「後漢書」で「邪馬臺国(やまたいこく)」と表記が変わったのは、日本側が「山大倭国」と名乗るようになったからでしょう。

また、「筑後国風土記逸文」に筑紫君等の祖であると書かれている「甕依姫(みかよりひめ)」が卑弥呼(ひみか)です。


景行天皇・神功皇后(4C)


書紀の「神功紀」に引用された「百済記」と、書紀の本文に、百済側から見た第三者の倭国を指して「貴国」という国名が出てきます。

これは、大宰府近くの「基山」、「基肄」などがある「キ」地域を都とした国であり、邪馬壹国と同じ倭の王朝がそう呼ばれていました。

書紀によれば、九州討伐の時に、仲哀天皇は穴門と筑紫で統治したとされますが、前線での統治は現実的ではありません。

神功皇后がおそらく第二妃だったので、あえて正式な皇后のいた大和を軽視したのでしょう。

ですから、仲哀天皇の後は、香坂王が正式な天皇についており、遠征していた神功軍が反乱軍としてこれを討って皇位を簒奪したのでしょう。

また、倭建命は暗殺によって敵地を支配したと記されていますが、これも非現実的です。

景行紀では天皇が九州各地を巡回していますが、筑紫には入っておらず、古事記には景行天皇の九州征伐の話はありません。

つまり、書紀の記載は、筑紫王朝が九州を平定した歴史を、景行天皇の業績として簒奪したものでしょう。

また、神功紀には筑紫征伐がありますが、古事記にはありません。

つまり、書紀の記載は、筑紫王の筑紫平定の歴史を、神功皇后の業績として簒奪したものでしょう。

そして、神功紀では三韓征伐が語られますが、古事記には国交樹立だけが記されています。

後者が史実だったのでしょう。

書紀には一書の引用が多数ありますが、神武東征以降に九州を離れると、引用がなくなります。
これは一書が筑紫王朝の歴史書だったからです。
東征以降は引用ではなく、盗用という形になります。

古田史学の会の大下隆司らは、神功皇后や応神天皇は九州から東征して近畿に新王朝を建てたと考えます。
これを期に、近畿の巨大古墳群の埋葬品が、馬具や鉄製武器に変わりましたが、これは福岡から50年遅れです。

また、正木裕は、筑後国一宮の高良玉垂宮(高良大社)の祭神であるにも関わらず記紀に消された高良玉垂命が、神宮皇后のモデルであり、彼女の長男と次男が倭の五王の讃・珍の母に当たると考えます。

そして、神功皇后による忍熊王討伐は、邪馬壹国による近江の銅鐸圏勢力の討伐を意味すると考えます。


倭の五王(5C)


西晋滅亡(316)以降、半島では、高句麗と倭が激突しました。

好太王碑文の「倭が国境を犯した」を見ても、「三国志」、「三国史記」の記述を見ても、倭は南韓に領土を持っていました。

倭国には、紀元前から6C初頭まで南韓の領土があり、「三国志」や「後漢書」に記載されている狗邪韓国も倭人の国でした。

好太王と戦ったのは、倭の五王の最初の「讃」です。

「宋書」に書かれた倭の五王の国の記載に「海北を平ぐること九十五国」とあるように、倭国は半島の南に位置する九州にありました。

倭の五王は、筑紫の倭国王です。

倭王は、中国から、「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の五国の諸軍事、安東将軍」、つまり、中国の天子の将軍として認められていました。

そして、「武」に至って、大将軍と認められました。

「三国史記」には、倭国は度々新羅を攻めたとありますが、書紀にはそのような記述がありません。

大和の王朝がそれを行っていないからです。

古賀、正木は、倭の五王の都は、筑後にあったと推測します。
ここには、大型古墳のある八女古墳群と三潴の古墳群があり、前者には筑紫君磐井の墳墓もあるからです。


継体天皇


継体天皇は、武烈天皇までの大和の王朝を滅ぼし、王権を奪取しました。

継体天皇が20年間大和に入れなかったのは、大和で後継争いが続いていたからでしょう。

継体は応仁の5世、あるいは6世とされますが、具体的な系譜が記されておらず、捏造でしょう。

また、古事記の説話が顕宗天皇でぷつりと終わってその後にないのは、継体による王朝交替が原因です。


磐井の乱


九州王朝では、517年に初めて年号を建てて「継体」としました。

これは中国南朝(当時は梁)の冊封体制からの離脱を意味します。

ですが、これは大和の継体天皇と無関係で、中国南朝の権威を引き継ぐという意味を持ちます。

そして、次の年号の「善記」は、磐井が建てた年号です。

書紀は「国造磐井」と記し、古事記は「筑紫君石井」と記しますが、「筑紫風土記」の「衙頭」という言葉から、磐井が大将軍、つまり、九州王朝の倭国王だったことが分かります。

書紀にも磐井に高麗、百済、新羅、任那などが朝貢していたことが記されています。

また、磐井の墓には、裁判の場を表現した石像のある区画があり、磐井が律令制を確立させたであろうことが分かります。

書紀によれば、磐井の乱は、大和朝廷が朝鮮へ進軍するのを、磐井が妨害した反乱です。

そして、物部麁鹿火がこれを鎮圧しました。

その後、大和朝廷が大伴金村に新羅討伐を命じました。

これに対して、古田は、最初は、これが近畿の継体が筑紫から独立した反乱と考えました。

そして、「百済本記」に「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨せぬ」と書かれている通り、磐井の王朝が崩壊したと。

ですが、後に、九州年号が継続していることなどから、磐井の乱はなかったと考えを改めました。

古田史学の会の正木は、新羅と組んだ毛野臣の悪行に対して、磐井がこれらの討伐を大伴金村に命じて、任那、新羅を攻めたのだと考えます。


俀国と多利思北孤(6-7C)


「隋書」には「俀国伝(たいこく)」に「日出処の天子」などの記述があります。
定説ではこれを「倭国」の間違いとします。

「俀」は卑字であり、倭国側では「大倭国(たいこく)」でしょう。
行路には九州の国しか出てこず、阿蘇山の記述があるので、これは九州の王朝であり、倭の五王の倭国の後継国です。

「隋書」によれば、阿毎多利思北孤(アメノタリシホコ)が「日出処の天子」と名乗り、隋と対等の立場を主張しました。
これは中国の南朝が滅び、北狄にすぎなかった隋が「天子」を名乗ったからでしょう。

「天子」を名乗ったということは、年号を持つハズですが、年代的にこれに対応する書紀の推古朝には年号がありませんし、推古天皇は女帝です。
ですが、九州年号には「瑞政」があります。

また、多利思北孤は、隋の煬帝に対して「菩薩天子」という言葉を使っているので、おそらく自分自身に対しても同じであり、仏教による統治を学んで導入していました。

法隆寺釈迦三尊像の光背銘の上宮法皇は、この多利思北孤です。

定説では、この仏像のモデルである上宮法皇が厩戸豊聡耳皇子命(聖徳太子)であるとされます。
書紀に記された没年に1年のずれがありますが、これを間違いとします。
この定説の上宮法王=厩戸皇子説は、万世一系の原則から強引に作られたものです。
厩戸皇子は生涯、太子であり、法王(法皇)と呼ぶことはできません。
法隆寺は一度消失しているので、この仏像はその後で筑紫から持ち込まれたものです。

「隋書」の帝紀には「倭国」に関する記述がありますが、こちらは「俀国」の宗主下にあった近畿王朝を指しています。

定説では、書紀に記された推古天皇による最初の遣隋使(607年)が、「隋書」にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記された国書を渡したとします。

ですが、中国からの使者の裴世清の持参した国書に、第一代皇帝を示す「宝命」の語が使われていることから、相手は唐を建国したばかりの高祖であり、推古が送ったのは遣唐使であり、書紀の年代は12年ずらされています。

推古紀は、外交した中国の王朝名として唐としか書いていません。
ですが、定説では、推古紀に煬帝が殺害された年を推古26年とする記述があることだけから、外交相手を隋とします。
「隋書」の記載は隋と俀国の外交であり、推古紀の記載は唐と近畿天皇家の外交です。


古田史学の会では、多利思北孤が「常居」、もしくは「倭京」の年号の時に、太宰府の倭京に遷都したと考えます。

服部静尚によれば、多利思比孤が「十七条憲法」を制定し、九州で行われていた中央集権的な官僚による直轄支配を、東国にも拡大しようとしました。

また、河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、捕鳥部萬らの先祖の墳墓であるとします。

冨川ケイ子は、書紀の排仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事の後半が、九州王朝による河内・難波征討戦争を示すものであると解釈しました。
九州王朝は、この地(八カ国)を直轄支配領域にするとともに、これが全国の分国と律令による一元支配の端緒となったとします。

正木によれば、629-634年にかけて、「聖徳」という年号が存在したと記された書が複数あるが、これは多利思北孤を継いだ利歌彌多弗利が立てた年号であり、法号でした。


難波宮遷都と常色律令


正木、服部らによれば、書紀が伊勢王を記す人物は、多利思北孤の息子で、647年に即位して「常色」に改元しました。

そして、652年には前期難波宮(難波長柄豊碕宮)を複都として造営して「白雉」に改元しました。

遷都の理由は、対新羅・唐戦にそなえたものであり、評制、氏姓制、官位制の制定、律令の制定、八省百官・十師の設置などの集権的な改革を行いました。
つまり、書紀が「大化の改新」として脚色盗用したものの実体は、伊勢王による「常色律令」だったのです。

その一方で、太宰府周辺の山城などの防衛施設の建設をしました。

難波宮は日本における太宰府の次の条坊都市であり、8千人の官僚が住んでいました。
ここは律令政治が行われた都であることが分かります。

それに比べて、飛鳥宮は難波宮の十分の一の規模であるので、書紀が記すような飛鳥宮への遷都はありえません。

また、難波宮には西方に竜田の関・大坂の関があり、これは大和方面から侵入する敵に備えたものでした。
 

白村江の戦い


白村江の戦いを行ったのは九州倭国軍であり、近畿軍は参加を要請されたもののほぼ参加しませんでした。
倭国軍を指揮したのは、皇子の「薩夜麻(さちやま)」です。
「薩夜麻」は卑字表記で、倭国での「幸山」でしょう。

「薩夜麻」は敗戦して、唐の捕虜になり、封禅の儀に参加させられました。

薩夜麻が唐の捕虜になっていた時期、近畿王朝の斉明天皇が筑紫の朝倉宮で留守を預かり、続いて、中大兄皇子が称制を行いました。

正木は、白村江の戦いを指揮した時点で薩夜麻が倭国王だっと考えます。
服部は、この時の倭国王は、中宮(大阪府羽曳野市の野中寺に伝わる弥勒菩薩像の框に刻字されている)であり、倭姫王と同一人物かもしれないと考えます。


近江朝・天智天皇


書紀では671年に薩夜麻が帰国したことになっていますが、これは年代がずらされていて、実際には667年に帰国しました。

また、郭務悰が率いる唐の占領軍が筑紫に来て、太宰府の地を都督府とし倭国を統治させました。

唐軍は、新羅に敗退する675年頃まで進駐していました。

古賀、正木は、薩夜麻が倭国王(筑紫君)として都督になったと考えます。

これに対して、天智天皇は近畿王家の人間であり、九州王朝の反唐勢力をバックアップとして、九州王朝の皇女「倭姫王」を娶って即位し、九州王朝を継ぐ形で、同年に近江に遷都したと考えます。

そして、近江王朝では、天智天皇が年号「中元(668-671)」を、次に大友皇子が即位して年号「果安(672)」を建てました。

また、「三国史記」と「新唐書」によれば、670年に倭国から「日本国」への国名変更が起こっています。

ここに唐がバックアップする薩夜麻の九州王朝(年号は白鳳)と、近畿王朝の2王朝が並存することになりました。
天智天皇は、九州王朝の倭国王がいたため、「日本国」を名乗ったのです。

服部は、近江朝では、倭姫王が中宮天皇として即位し、天智はこの女帝に仕えたとします。


壬申の乱・天武天皇


壬申の乱は、近畿の大海人皇子が、郭務悰と薩夜麻のバックアップを受けて起こした内乱です。
つまり、壬申の乱は、反唐の近江朝と、親唐の大海人皇子らの戦いです。

大海人皇子は、天智天皇の後は倭姫王に継承させるように要請していましたが、彼女の子ではない大友皇子が即位したことで、近江朝を討つことを決めました。

壬申の乱では「倭京」での戦いが記載されています。
書紀には、孝徳・天智・天武紀のみに「倭京」という言葉が出て来て、これを奈良の飛鳥京としますが、実際は筑紫の宮を指すものでした。
九州年号には「倭京」があります。

また、大海人皇子が逃れた吉野は、書紀では奈良の吉野とされますが、実際は佐賀の吉野です。
有明海には白村江の戦いに向けて出発した軍港があり、都からそこに続く軍用道路の到着点が吉野でした。
吉野には唐の占領軍もいました。

ですから、壬申の乱の舞台は、九州から滋賀の近江までだったのです。

服部は、壬申の乱の原因を、近江朝の大臣だった蘇我赤兄が中宮天皇を追い出すクーデターを起こしたと考えます。

ですが、675年に新羅が唐を破って半島から追い出したので、九州の唐軍も撤退し、薩夜麻、天武は後ろ盾を失いました。
また、678年、684年に筑紫で大地震が起こって、九州王朝の拠点が壊滅しました。
さらに、686年には、近畿の拠点である難波宮が焼失して近畿の拠点も失いました。
また、同年に、薩夜麻、天武天皇、大津皇子が亡くなりました。

正木は、倭国王の薩夜麻が難波宮で統治し、天武はヤマトの王として筑紫の飛鳥浄御原宮で統治したと考えます。


日本


「旧唐書」には、日本は「倭国の別種(分家)」、「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」と書かれています。
つまり、これは、近畿王朝(日本)が九州王朝(倭国)を併合したことを意味します。

「続日本紀」にあるように、701年に文武天皇が「大宝」を建元しましたが、これは王朝交代であり天智の「日本国」を継承したことになります。
そして、703年の遣唐使の来訪の際に、則天武后が近畿王朝の「日本国」を公認しました。

服部は、九州王朝最後の王である大上天皇(平城京薬師寺の東塔擦銘に記されている)から文武への禅譲が行われたとします。

古田は、701年の日本国による建元をもって九州王朝、九州年号が終わったと考えました。

ですが、古賀、正木は、「運歩色葉集」によれば九州年号は701年以降も「大化(695-703)」、「大長(704-712)」まで続いていて、この時期まで近畿王朝の勢力下に入らない九州王朝の勢力が残存したと考えます。
「続日本紀」によれば、713年に隼人征伐の後、南九州に大隅国が作られたとあるので、これが九州王朝の残存勢力の滅亡を意味するのかもしれません。




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