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九州から奈良への寺院の移築と人の移住

「九州王朝論の比較」に書いた文章を転載します。


何人かの九州王朝論者は、「日本」が成立する直前の天武期に、北九州から近畿の飛鳥、藤原宮などへ、多くの寺院の移築や、人の移住があったと主張します。


法隆寺の移築


法隆寺は、上宮法皇の病気治癒を願って、623年に現在の若草伽藍跡に建立されましたが、書紀によると670年に全焼しました。

ですが、現在の五重塔の心柱は594年に伐採された木材であり、屋根の木材は624年から663年のものがあり、いずれも、焼失より古いものです。

また、金堂の部材も焼失より10年ほど古いものです。

ですから、現法隆寺の五重塔と金堂は再建されたものではなく、移築されたものです。

古賀達也は、筑紫の倭京の難波天王寺から移築されたと推測します。

一方、佃収は、焼失したのは正しくは法隆寺ではなく斑鳩寺であり、最初の法隆寺は、肥前の飛鳥(佐賀県三養基郡)で建てられ、奈良の斑鳩に移築されたと主張します。

さらに言えば、五重塔と金堂は、最初は北九州のそれぞれ別の場所で建てられた後、肥前の飛鳥に移築されました。


飛鳥四大寺の移築


室伏志畔は、天武が筑豊の大寺・大社の藤原京への移築、仏像の移坐を構想したと主張します。

そして、蘇我仏教の拠点だった元興寺(椿市寺跡)などの反対派の僧を弾圧して、これを強行しました。

こうして、筑紫の大寺院は飛鳥へ移築され、さらにその後、奈良平城京へと二度の移築がなされました。

飛鳥四大寺の移築は次のような対応になります。

(九州)→(飛鳥)→(奈良)
元興寺 →法興寺 →元興寺
百済寺 →大官大寺→大安寺
香春寺 →川原寺 →興福寺
薬師寺 →薬師寺 →薬師寺

また、多くの僧が、移築、移坐の条件として、建物や本尊の取り合いを行い、筑紫本寺の畿内における分割相続が行われて、複数の寺が同じ寺号を号して正統継承者を主張することになりました。


豊前の寺院の移築


福永晋三は、天武天皇7年(679年)に発生した 筑紫大地震の後に、豊前王朝の寺院の移築が行われたと主張します。

廃寺跡からは、礎石と瓦は出土しますが、木材の一片も出土されないのは、移築されたことの証です。

具体的には、天台寺、椿市寺(四天王寺)、菩提寺、上坂寺(法起寺)、木山寺、国分僧寺(法興寺)、国分尼寺、垂水寺、相原寺、塔ノ熊寺、法鏡寺、虚空蔵寺、小倉ノ池寺、弥勒寺があります。


人の移住と言葉の変化


斉藤忠は、7世紀の第4四半期頃から、北九州で人口が20%前後(25万人ほど)も急減するのと入れ替わりに、畿内要部、ことに奈良盆地、中でも藤原宮の周辺で人口が急増していることを指摘します。

このことから、九州王朝の多数の人間が、藤原宮への遷都に前後して大和に移住したと考えます。

そこには、多くの官僚たちが含まれていました。

斉藤は、藤原宮の造営と遷都を行った天武とその息子の高市を、筑紫王統の天皇であるとします。


また、砂川恵伸は、これと連動して、近畿において、天武朝以降に国語の音韻が変化して、上代特殊仮名遣いが消失したと主張します。

九州王朝の言葉は朝鮮語、中国語の影響を受けていて、彼らの移住によって言葉が変わったからです。



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